2026年問題:人生の記憶と記録

ライフログ(LifeLog)」という表現にひどく抵抗を覚える。「人生の記録」?

私は人生は記録するものではないと思う。人生そのものがつねにすでになんらかの記録をすることであり、そのことを自覚的に生きることだけが重要なのだと考えている。外側からあえて記録する、記録される必要はない。

先日、大英図書館(The Britishi Library)で、人生の記録(Memories for Life)をめぐる諸問題を討論する会議が開催されたらしい。英国のTelegraph紙12月14日の記事で知った。

Computers 'could store entire life by 2026'
By Nic Fleming, Science Correspondent
Last Updated: 4:05am GMT 14/12/2006
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2006/12/13/nlife13.xml

Leading computer scientists, psychologists and neuroscientists gathered to debate these issues at Memories for Life, a conference held at the British Library yesterday.

会議に参加したのは英米の指導的なコンピュータ科学者、心理学者、神経科学者たち。哲学者が参加してないのが物足りない。会議では2026年、つまり今から20年後には、ムーアの法則に従えば、人生をまるごと高解像度のデジタルビデオで記録することが可能になってしまうことがもたらす帰結をめぐって、否定的観測と肯定的観測が提出された。

一方ではプライバシーの喪失や国家による監視など悩ましい問題を引き起こすであろうし、他方では医療、教育、犯罪抑止、歴史記録の進歩をもたらすだろうということだった。会議の総括としては、記録技術の進歩は、記憶に障害のある個人をサポートしたり、コミュニティーの集団的経験の記録に役立ったりする面はあるだろうが、技術の進歩と結びついた社会的問題を幅広くオープンな形で考えなければならない、という平凡なものである。

私がちょっとだけ興味深かったのは、会議の議論の土台になった、英国のコンピュータ協会の会長で人工知能研究者でもあるNigel Shadbolt教授の予測だった。

"In 20 years' time it will be possible to record high quality digital video of an entire lifetime of human memories. It's not a question of whether it will happen; it's already happening."

A lap top available in the High Street can hold some 80 gigabytes (GB) of information. One hour of high resolution video footage requires 12GB.

Since the year 2000, computing processing power has been doubling approximately every 18 months - a phenomenon known as Moore’s Law.

Prof Shadbolt has calculated that it would take 5.5 petabytes (PT) to record every awake second of a person’s life in high resolution video.

最近、美崎薫さんの研究やfuzzy2さんの報告で、テラバイトという単位には馴染んできたが、その上のペタバイトが射程に入った予測である。一般に馴染み深いギガバイトを基準にすれば、1000ギガバイトが1テラバイト、1000テラバイトが1ペタバイトである。1ペタバイトとは、1,000,000ギガバイト、百万ギガバイトである。Shadbolt教授によれば、現在の並のノート型パソコンのハードディスク容量が80ギガバイトとして、高解像度のデジタルビデオによる1時間の記録には12ギガバイトかかる。つまり、それでは全人生のわずか7時間弱分しか記録できない。しかし、ムーアの法則によれば、およそ18ヶ月でコンピュータの性能は二倍になるから、単純計算では、20年後の2026年には5.5ペタバイトのハードディスクを積んだマシーンが並になると予想できる。5,500,000ギガバイト、5,500テラバイトあれば、目覚めている間の全人生を記録することができることになるという。

しかしながら、この記事では、人生の記録に値する「高解像度」の数値や、「覚醒時間」の平均値など、細かいところで数値が出ていない欠点もあるが、それ以上に気になったのは、会議に出席していた研究者たちも、記者も、「人生の記録(Memories for Life)」そのものをひどく抽象的かつ形式的にしか捉えていない節のある点である。機械的な「記録」と人間の「記憶」の違いが認識されているようにも見受けられない。

冒頭に書いたように、「人生の記録」という一見温和な表現が危険だと私は思う。「人生」は「私の人生」である。「記憶」も「私の記憶」である。「私」がすっぽりと抜け落ちた「人生の記録」に関する無邪気な議論は、例えば政治的な濫用を防ぐために必要な議論をも遅らせかねない。どうも「人生の記録」は素晴らしいことですよ、という音頭に乗せられているのではないかと勘ぐってしまう。

山神


自宅の裏山、裏丘。

今朝の藻岩山。以前から気になっていた向かって右手、東側のボリュームのある裾野に眼が強くひかれた。何か巨大な涅槃像、いやいや膨大な数のコロポックルでも埋もれているような幻想っぽいイメージが脳裏を掠めた。折口信夫想像界における二上山を連想する。

藻岩神社の顔。泣いている。

久しぶりの自然芸術。アート・ネイチャーならぬ、ネイチャー・アート。

吉増剛造さんの映画の秘密2



12月22日(金曜日)、「グラヌールの夕べ」で上映された「まいまいず井戸------takeII」も「エッフェル塔(黄昏)」も、programに寄せられた吉増剛造さんの手書きの解説によれば、「一息に7〜8分で収めようとして、撮られています」とある。上映後のコメントでも、何度か「編集はしていません」という言葉が強調気味に語られた。

撮影の後で編集を行うのが普通である。撮影では使えそうなシーンを可能なかぎり撮る。そうして撮られた素材を、様々な制約のなかで「作品」へと落とし込む、いわば解釈、意味付けのプロセスが編集である。しかし、なすべき編集があらかじめすべて見通されていれば、撮影することが同時に編集することでもあるという事態が成立しうる。

もちろん、完全に未解釈の生の撮影素材はありえない。むしろ、どんな映像もいくつもの潜在的な文脈におかれ、行く通りもの解釈を許すだろう。だから、編集とは無数にも感じられる文脈と解釈を、一定の文脈に絞り込むような解釈を施すことだと考えたほうがいい。普通は。

しかし、それはごくありふれた撮影→編集の手垢の付いたプロセスだ。だれもそれを疑おうとしない。そうして作られる映画の真実にはそれなりの限界があるにも関わらず。どんな限界か。人生の記録の真実としての限界である。

吉増剛造さんが挑戦した「映画」は、そのような常套の手順を確信犯的に裏返す。あらかじめ、「対象」は明確に命名されているところから出発する。横田基地近くの羽村市五ノ神神社の「まいまいず井戸」そしてパリの「エッフェル塔」。撮るべき対象があらかじめ「ひとつ」に絞り込まれている。そこに吉増剛造さんの映画のひとつの秘密がある。

というのは、その対象を絞り込むプロセスとは、原映画としての吉増剛造さんのそれまでの人生そのものであるような原編集だと言えるからである。「まいまいず井戸」に、そして「エッフェル塔」に、「一息に7〜8分で」注ぎ込むべき驚くべき文脈と解釈の数々を吉増剛造さんは手にしていたのだ。したがって、そこには私のような素人が撮影する場合におけるように、普通の意味での偶然が入り込む余地はほとんどない。その編集織り込み済みの撮影の結果は、かつてだれも試みたことのない、眼を見張る質を備えた映画だった。

しかも、「エッフェル塔(黄昏)」には奇蹟ようなこれこそ「偶然」の名に値すると思われる瞬間が記録されていた。画面の左上隅に電車が移動するのが小さく写っていたのである。わずか数秒の記録で、上映中に吉増剛造さんがそこを指差さなければだれも気がつかない偶然の記録。ベンヤミンプルーストに言及したときに使った「無意志的想起」(『機(はた)------ともに震える言葉』80頁)。小さな電車を指差す吉増剛造さんは本当に楽しそうだったのが印象的だった。

驚くべき文脈と解釈の数々に関して語る準備はできていないが、それらを統べているように感じられるのは、世界を深いところから救う=掬うような、具体的な優美な動作や仕草をも想起させる、かぎりなく繊細な眼差しである。その眼差しから逃れるものはひとつもないような、鋭敏でもある眼差し。「何も省略しない」普遍的な女、母の眼差し?