百年後の視線

TagSightのタグ検索で、YouTubeに「明治時代」という1890年の東京、京都、名古屋、神戸の短い映像などを中心に編集されたビデオがアップされていることを知った。銀座4丁目の映像も含まれている。
http://www.youtube.com/watch?v=yw8yI2giR14
NHKが製作したドキュメンタリー番組「映像の世紀 The 20the Century in Moving Images」の第11集「JAPAN 世界が見た明治・大正・昭和」の最初の二つ、「知られざる日本の面影より/ラフカディオ・ハーン屋良有作」と「カナダ人記者の手記より:江川央生」のパクリ映像のようだ。

ここ2チャンネルガイドライン版「映像の世紀ガイドライン」ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn, 小泉八雲, 1850-1904)の『知られざる日本の面影』asin:4042120040からの引用がある。

何もかもが言いようもなく愉快で、目新しくてたまらない。
はるか極東のこの国に、自分は今、本当にいるのだ。
人力車というやつに乗っている私の目の前では、
車屋のかぶっている笠が、ひょこひょこと上下に踊りながら駆けていく。

青い屋根を乗せた小さな家並み、青いのれん、青い着物を着て
始終にこついている小さな人たち。
私をさも物見高そうに眺めていくその目には、敵意などは少しも無い。
大抵、にこやかに微笑んでいる。

明治30年代の日本をリアルタイムで見たハーンの感想を、117年後の日本人の私も共有してしまうような映像だった。ハーンは一世紀未来の「目」で当時の日本を見ていた。今の日本を同じような目で見ているのは誰だろうか?

廃墟感と路地感


これは、きのう車で通勤中に撮った近所の建物に遺された古い名前「川沿ストアー」。近所に大型スーパーが建つ以前は、この建物全体が川沿ストアーとして買い物客で賑わったのか。現在この建物に入っているお店も学習塾からスナックまでバラバラで、下町っぽくて思わず微笑んでしまう。

***


朝の散歩コースにはいくつかの目に見えない結界、境界がある。その最初の境界はこんなミラーの立つ見通しの悪い辻(十字路)で、藻岩山が左右逆に歪んで写っていた。散歩コースは先ず北へ1kmくらい行き、そして東へ500mくらい行き、そして南へ1km戻り、最後に西に500mくらい戻る、という、途中短いジグザグはあるが、全体的にはほぼ長方形の辺を辿る。その東へ500mほど行く道で、以前からある家の古風な縦長の木製の表札がなぜか気になっていた。ご夫婦の名が併記してあるのだが、名が「国男」と「民子」とあり、横には「国民」と「男子」と読める。姓は原爆が投下された九州の地名。国民国家の記憶が凝縮されたような表札だと感じたのだろうか。

南へ折り返してすぐ、タンポポ公園がある。今朝もエゾノコリンゴにゲストの姿は見えないな、と思って近寄ってみると枝が複雑に交差し、しかも逆光の中で、見たことのある気がした三羽の小鳥が目立たないようにするためか、お互いに距離をとって静かに佇んでいた。その内の一羽を撮ることができた。サイズはスズメよりちょっと大きくて、太くて短い嘴、黒い頭上と翼と尾が特徴的だ。前に見たウソかなと思った。帰宅後すぐに昨日ビデオ解説した要領で『フィールドガイド日本の野鳥』で検索したら、ウソの亜種アカウソBullfinchのメス(female)と同定できた。オスは喉のあたりが赤いらしい。オスもいたはずだが撮れなかった。2月28日に出会った小鳥もウソはウソでもアカウソのしかもメスに違いなかった。

昨日寄り道をしていくつかの発見があった小路に今日も入った(東に向かった)。「電線ツララ」は健在だった。そしてその小路の途中で一本のさらに細い道がなぜか気になった。その道から少年が出て来た。この道、通り抜けられる?はい、突き当たりに階段があります。階段?もしや、と思って、私は風太郎を引っ張ってその細い道に入った(北に向かった)。

あった。素晴らしい。路地的空間だ。

もちろん、降りてみた。

すると、寺があった。素晴らしすぎる。

ある時期まではここが大きな境界だったのだ。昔は「上」には人は住んでいなかった。上に人が住むようになって、坂道の車道が何本も上と下を繋ぐようになったが、車は通れない、人だけが通れる道、階段はここにしかなさそうだ。この土地に住み始めてから11年目にして、私はようやく「路地的なるもの」の痕跡を発見したのだった。

階段を上って、細い道を戻り、本来の散歩コースへ戻ろうとしたが、何かを感じてそのまままっすぐ南に向かった。すると小学生への読みがな付きの手書きのメッセージ・ボードが目に留まった。

確かに、雪国にあるまじき設計だった。

そして太い通りに出る直前に、なんと"ATELIER"(???)があった!



アトリエ?私の中では走馬灯のようにアートに関する沢山のイメージが駆け巡った。玄関の天井から初めて見るデザインの紙製の提灯もガラス越しに見えた。まだ人が住んでいるのかいないのか非常に微妙な雰囲気であった。

太い通りに出ると空気は一変した。正面には真っ白な公園が広がり、子どもたちの歓声が聞こえた。眩しい。よく見かける近所の保育園児たちだった。カラフルな可愛らしいのが沢山いた。

空間を子宮化する音楽Dalius Naujo:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、69日目。


Day 69: Jonas Mekas

Friday March. 10th, 2007
4 min. 08 sec.

Dalius Naujo plays
drums, as a surprise
dancer makes his
entrance --

ダリウス・ナウージョ
ドラムの演奏をしていると、
思いも寄らぬダンサーが
登場する

すでに三度登場しているダリウス・ナウージョについて、1月7日1月27日には、どこか変だなと感じながら「ヒマラヤ出身のパーカッショニスト、ダリウス・ナウージョ」と書いたが、1月30日になってようやく「ヒマラヤズ(Himalayas)」というバンド名だと気づいた、というお恥ずかしい経緯があった。ナウージョだけではないが、私も初めて知る日本語情報が皆無に等しいアーティストが多く登場するので、その辺は大目に見ていただきたい。(今後も誤りに気づき次第どんどん訂正していきます。気づいたこと、おかしいと感じたことがあれば、是非お知らせください。)

ヒマラヤズの演奏する音楽は、ミニマル・ミュージックともどこかでつながると思われる、3月6日クーベルカ(Peter Kubelka)がチベット・ゴングで演奏したような、ある種の瞑想状態に人を導くチベット仏教音楽に通じるものがあると感じる。音楽の専門的なことはよく知らないので、嘘を書くことになるかもしれないが、倍音噪音に満ちた音が多方向に絶えず微分されていくような、「意味」や「イメージ」を経由せずに、ダイレクトに脳細胞というかニューロン・ネットワークに作用するため、聞いているうちに、次第に思わず身体もミニマルに動き出してしまうような音楽。演奏される空間全体が子宮化すると言えるかもしれない。

突然現れたダンサーはナウージョの息子なのか、アンソロジーの誰か、スタッフの子どもなのか、素性は不明だが、まだ心身ともに柔軟な子どもなら、その音楽に敏感に反応し、大人には真似できないような、音楽というかその空間を満たす独特の波動に正確に対応した動き、ステップを見せる。メカスのカメラもそれを捉えている。

私の廃品活用芸術活動

部屋を整理していた娘が出したゴミのなかに古いスパイラル・ノート(Spiral Notebooks, Wire-O Notebooks)が十冊くらいあった。コイル部分が針金やプラスチックなので、分別ゴミとして出すには紙の本体からコイルを外さなくてはならない。他にやることがあって忙しい娘の代わりに私が分解作業を行った。同じ針金のコイルでも一本を文字通り螺旋状に巻いてあるもの(単純スパイラル)と一本の針金が一見二本に見える凝った折り曲げ方をしているもの(複雑スパイラル)とがあり、またプラスティック製の単純スパイラルがひとつだけあった。複雑スパイラルはノート本体が外せる隙間があるので楽だが、単純スパイラルは、最初はリーフを少しずつ千切るように外していたが、時間がかかるので、針金の方をその端っこをペンチで引っ張ってズルズルと抜く方法に切り替えた。

表紙とリーフは燃えるゴミ、針金コイルは燃えないゴミ、プラスチックのコイルはリサイクルのゴミと分けて、さあ捨てようと思った時に、ちょっと待てよ、と思いとどまった。捨てようと思ってまとめて丸めようとしたコイルの感触と多彩さが、メカスの365日映画2月22日に登場したサラ・ジー(Sarah Sze)の作品群を連想させたのである。そこで、私は色とりどりのコイルを無造作に丸めたものに、先日拾ってきて、机上に放置したままの蔓の切れ端と完全に乾涸びたエゾノコリンゴを繋いだものをパソコンの本体の上に置いた。こういうことをすると家族には白い目で見られるが、私は結構満足している。今年初めてのアート活動である。しかも廃品一部活用芸術だ。悪くない。