雲の峰いくつ流れて藻岩山



札幌、散歩に出たときはハレ、戻ったときは曇り。雪もちらつき始めた。雲がどんどん西から東へと流れている。上空の大気の流れがかなり速いようだ。時折、下界にも冷たい突風が吹く。

藻岩山中腹の白い瑕のように広がるゲレンデを何度も雲の影が横切る。イメージはかなり違うが、昔ある人にその神話的含意と芭蕉の怖るべき「目」の深さを教わった芭蕉の句を連想する。*1

雲の峰いくつ崩れて月の山

ちなみに、オレゴン大学で日本文学を教えるステファン・コール(Stephen Kohl)先生がオンライン資料"Basho's World"こんな風に英訳している。*2

How many columns of clouds
Had risen and crumbled, I wonder
Before the silent moon rose
Over Mount Gassan.

原生林からかなり大きなたぶんガンの仲間と思しき黒っぽい二羽の首の長い野鳥が飛び立ち、住宅街の方へ消えた。おお、あれは何だ、何だ、と口走ったが、あっという間の出来事で写真を撮ろうとさえ思わなかった。

裏道は、氷とシャーベットとアスファルトが共存している。

タンポポ公園が視界に入ると二種類の甲高い鳴き声が聞こえてきた。逆光の中ではっきりと同定できないが、たぶんツグミの仲間が十羽ちかくせわしなく樹から樹へと飛び移っていた。公園に近付きカメラを向けると、皆鳴きながら逃げて行った。ところが、野鳥たちが食いちらかした深紅の果実の残骸が雪を血のように染めている蝦夷の小林檎の樹の下で、なんと昨日出会ったアカウソと同じに見える小鳥が一羽果実を啄んでいた。そっとカメラを向けて目一杯36倍ズームして撮った。肉眼でははっきりと見えなかったが、帰宅して写真を見たら、頬と喉が紅がはっきりと写っていた。腹まで赤いとベニバラウソだが、腹は灰色なのでウソBullfinchのオスと同定できた。

*1:伊藤洋さん運営の素晴らしい「芭蕉DB」http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htmの「芭蕉俳句全集」http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm#no22に月山山頂の石室と句碑の写真付き解説がある。

*2:しかし、正直なコールさんは、その注で、"Mt. Gassan / In English it is hard to see how this poem works. Instead of "columns of clouds" it is "Kumo no mine" which contrasts the "Tsuki no yama". So we have day and night, cloud and moon, peak and mountain, based on the idea of Mount Gassan as Tsuki no yama. Which of these combinations is real? Is it a dream or is it reality?"と夢か現か?とやや困惑を隠さない。なお、コールさんは、日本語オリジナルの電子テキストhttp://darkwing.uoregon.edu/~kohl/basho/30-gassan/japanese.htmlも公開している。

超迷宮としての本

本の読み方に関するbookscannerさんの卓抜な「路線図/地図」の比喩を、本の電子化という文脈から外れた場所で考えていた。

路線図とは目次、地図とは索引である。読者は著者の指示(路線図)通りに読む義務はない。索引(地図)を頼りに気ままに読む権利がある。しかも索引(地図)は本に掲載されているものに限られない。私たちは頭の中の索引(地図)を総動員して一冊の本の中を旅する。あるいは外を。

ところで、しかし、私はそもそも路線図(目次)はもちろん、地図(索引)もない本が好きだ。というか、そんなものが役に立たない本が好きだ。人生に目次や索引がないように、というか本当は作れないように、というかある意味では死ぬまで作り続けなければならないように、私の好きな本は、わかりやすい入り口も出口もない、ある意味ではどこもかしこも入り口であり出口であるような、超迷宮(Super Labyrinth)のような本である。

沈黙の実験 Silence, pleaese !:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、70日目。


Day 70: Jonas Mekas
Sunday March. 11th, 2007
4 min.

a piece about
silence and sound --

沈黙と響き
についての一篇

冒頭、"Silence, pleaese !"と手書き文字のテロップが入る。同じ映像を前半は音無しsilenceで、後半は音付きsoundで見せる。右手が激しくテーブルを叩き、メカスの顔が大写しになり、右手の人差し指がしっかりと閉じた唇に当てられ、右手の人差し指が右耳を何度も指す。ほぼ同じ動作が繰り返される。前半のサイレントでは「音」は想像上のもので、記憶から引き出された音のイメージを追体験させられる。私は瞬時にテーブルの材質や叩く手の動きの激しさなどから「音を計算する」。いわば、「音を見る」。そのとき、過去の様々な体験の音的記憶が喚び出される。脳が活発に活動しているのを感じる。

しかし、後半、音が出る、そう、まさしく「出る」と、想像上の音とは全く違う音が鼓膜を震わす。物理的衝撃を覚える。暴力のような刺激だ。メカスの右手は「これでもか!」とテーブルを叩く。脳は完全に受け身にその衝撃を受ける。

実生活では、私は音を選択的に聞いている。聞きたくない音には無意識にフィルターをかけている。またカクテルパーティー効果もある。聞きたい音を前景化し、後はノイズとして背景化する。つまり、聞きたくない音は聞かないようにするコントロールがある程度可能である。他方、映画やテレビでは通常は、敢えてサウンドのボリュームをゼロにしないかぎり、音が容赦なく鼓膜を震わせる。私は聞かざるをない状況に置かれる。だから、映像に下手につけられたサウンドは不必要な暴力にもなる。逆に、サウンドを消すと見るに堪えない映像もたくさんある。

話し声や歌声、人間や機械がたてる物音、楽器の演奏音、それらが本当に「音楽」といえる瞬間はどんなときだろうか、と考える。動物の鳴き声や風にそよぐ植物のざわめきや風そのものの音や海や川や雨などの水の音など、自然の音は、いつも「音楽」に満ちていると言えるだろうか。


音が聞こえないとき、目は耳になろうとする。いつもとは違う目になって世界を見るようになる。舐めるように見る。触れるように見る。1月9日に登場した盲目の写真家ユジャン・バフチャルが「手で世界を見」、「夢の鏡」としての写真を撮るように、あるいは聾唖者が全身で「音を聞き」、「夢の鏡」としての言葉を話すように、私は沈黙した映像に「夢の鏡」としての音楽を聴く。音楽家はそんな沈黙silenceに匹敵するサウンドに近付こうとしているのだろうか。

1月22日に"My music is not coming"と涙を流して訴えていたメカスを連想する。

行分けの秘密Ryoko SEKIGUCHI

昨年十月から五ヶ月以上ずっと読み続けている本がある。関口涼子吉増剛造『機------ともに震える言葉』(書肆山田)である。読み続けている、と言っても、私の場合はいつも傍に置き、ふと気が向いたときに開いたり、外出するときには鞄に入れて持ち歩き、色んな場所で拾い読みすることを続けているのが実情である。

世代はかけ離れているが同じように前衛的な二人の詩人による公開往復書簡集ということもあって、ひとつひとつの「手紙」が、詩人であるとはどういうことか、詩とは何か、という自己批評的でもあり、言語に関わる根源的でもある問いを掘りさげようとするある種の過酷さを湛えている。でも、だから、生きることと言葉を話す、聞く、書く、読むこととの関わりにおける普遍的な諸問題が次々と提起される。

そんな問題のなかで、私もこうして毎日性懲りもなく書き続けながら感じている、「言葉の身体性」という言い方が非常なリアリティを持つ地平で、関口さんが提起している問題がある。それは、詩の行分けの秘密とでも呼びたい問題で、実はそれは誰しも文字を綴る際にはいつでも経験しているはずの秘密でもある。

「詩の出口」がひとつの死なのだとしたら、行の終わりはそのひとつひとつが小さな死への不安のようなものです。違う点は、次の行に言葉が続いて行く時には、危険を賭した跳躍を成し遂げ、言葉が新たな生へとあざやかにつながれるのを見ることが出来るということです。アクロバット的な跳躍を繰り返して、死の危険をその都度に遠ざける、そのような言葉を生きることが出来る、それが私にとっては行分けという存在の意義であり、それを自らの身体とする詩の意義でした。勿論、跳躍のあり方は決して一様ではありません。詩人により、作品により、また内容との関わりでその都度足取りを変えて行くものであり、詩が言葉を次の行にどのように続けて行くかによって詩の生のあり方も変わって来るのです。

(中略)

通常の文章では、ある行と次の行の間が続いて行く時、行換えが存在しないものと見なしています。だからこそ私たちは散文や小説を一行ごといちいち立ち止まることなく読むことが出来るのですが、ないとされている行換えを一旦あると意識してしまうと、いままでは限界としては感じられなかったものが、たちまち枷として見えて来るのだろうと思います。それは、生の限界まで持ちこたえようとするような独特な言葉のありよう、特有な生に対して詩人が応えようとした時に共通に現れる感覚なのだろうと思います。

他方、散文詩は、行分けこそありませんが、言葉に別の形の生を生きさせる様式です。行分けの危険から言葉を庇護したような顔をして、もっと過酷な生を隠していたり、外見からすぐに詩とわかる形ではありませんが、散文形式の内部に敢えて入って行って、その中で言葉に生き生きとした身体がどのようにして可能かを探るという試みがそこにはあります。散文詩が詩であるかどうかというのは、おそらくその見かけの形式ではなく、そこに固有な言葉の生が賭けられているかどうかで判断されるものだろうと思います。
(100-101頁)

関口さんの念頭にある「詩人」は吉増剛造さんであるが、吉増さんの行換えに対する特異な感覚について彼女は次のように報告している。

例えば詩は、一息が極端に長く続く生を要求することもあります。吉増さんは以前、一行が終わってしまうのが惜しくて、ずっとその行を続けて行きたくて、原稿用紙の下までずっと書いて行ってしまうことがあるとおっしゃっていました。(中略)そして下まで書いて行って、端の方まで書いてしまった時、下までたまったその勢いで次の行へ飛び上がるのだともおっしゃっていました。
(100-101頁)

関口さんは、言葉もまた身体を持った生を生きることを再確認しながら、詩という言葉の身体の生と死の境界を歩き続けるという過酷な生=詩人を引き受けつつ、単に見かけ上の形式的な改行や行換えではなく、また見かけ上の行分けでもなく、言葉を繋ぎ、運ぶ「勢い」(「息追い」?)の見えない深い形式に触れようとしている。その言わば「リズム」こそが、関口さんが「幽霊の言語」*1と名指したところの、私の考えでは「純粋言語」であるのかもしれない。つまり、そのリズムで、人は「それ」を「言語」だと知るようなリズム。(つづく)

*1:2006-10-23「幽霊って何語を話すんでしょうね:奄美自由大学体験記16」http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061023/1161604538参照。