言語哲学入門

受講生のみなさん、こんにちは。

今日の授業では時間が足りなくて言い落としたことがたくさんありました。補足しておきます。

「迂回路」、「回り道」と称して見てもらったビデオの印象が複雑すぎたかな、とちょっと心配でした。「いのちの全領域のプンクトゥム、活気のあるところ、を傷をつけながらだろうけれども、もったいないから、これも、と、<すべてを>全身全霊で救う姿を通して<世界の丸み>に気づいていく。」


ラクタートゥスの、The world is all......の「all」に詩人は「丸み」を感じ取ると当時に、その後に続く「case」にも、「場合」とか「実情」とか「成立していることがら」という日本語では掬う、救うことができない「包み」をも無意識に感じているに違いありません。「ケース、ケース、......」というルビ(?)にそれが現れています。ドイツ語では「Fallファル」でしたね。柔らかい地面に「落ちる」、「落ち着く」ニュアンスがそこには感じられます。実はcaseはcascade[小さな滝]という落ちるイメージをもった言葉と遠くつながってもいます。(この辺りは、配付した紙資料裏面の英語語源辞典の切り貼りを参考にしてください)また、「沈黙の扉」は、詩人の知らないオリジナルのドイツ語ではDie Welt ist alles,と「カンマ」に明記されていることに驚いたでしょうか。

「筆跡」ならぬ「筆蝕」、月蝕や日蝕を連想した人もいたかもしれませんね。偶然にも『原・論考』の写真は蝕のような陰をもったものでした。授業の中では「子供が書いたような」と言いましたが、意外にも「丸み」のある筆跡と言い損ねました。

「Wittgensteinの、"The"とは、ここが決定的だ、......」について。
何がどう「決定的」なのか。あくまでWittgensteinにとって、「世界」はああでも、こうでも、色々にありうるようなものではなくて、こうでしかありえない、そういうものとして、彼は世界について、The worldとして語り始める、ということだと思います。こうでしかありえない「決定的な」世界が、しかしながら、しなやかに豊かに「丸み」を帯びる。

そして、ちっぽけなtheそして、allとそれに続くthatの目立たないが、「決定的な」働きに注目する詩人の言語センスは流石だと思います。『論理哲学論考』にかつてない全く新しい光、閃光を当てているとも思います。

こうして、私たちは迂回しつつ、寄り道しつつ、トラクタートゥスの全体像であり核心でもある場処を垣間見たわけです。

(補足の補足)

ひとつ、大切なことを忘れるところでした。
配付した資料の後半にある、「"古い、......”が、”数えている、......”、”古い、......”が、”数えている、......”」に「(いや、もしも、......」、「言葉はすべて、......」とルビというより、まさに「別の声」が伴奏されている箇所に関して。

ラクタートゥス(論考)は見ての通り、1の次が1.1という具合に、番号がふられています。詩人はもしかすると「数える」というヒトにとっては「言葉」の獲得と深く関係しているらしい古い、古い所作、仕草を、世界に関する根源的な記述を構成する命題群に付された番号に透視したのかもしれません。あるいは、「(世界はものの集まりによってではなくて、出来事の集合なんですよ、......”肯ウン(引用者)。”)」という箇所からは、世界を何かの「集まり」とか「集合」、「総体」と捉えることに、世界の構成要素のすべてを数え上げ(ようとす)る行為を透視したのかもしれません。いずれにせよ、これはかなり深い問題です。次回もう少し掘り下げます。

「"古い、......”が、」の「......」にはおそらく、「ヒト」が入ります。書いているときには詩人自身にとって不明だったのでしょう。「言葉はすべて、......」の「......」にはおそらく「(何かを)数えることだ」が入ります。これらは私の解釈ですが、どうですか。異論、質問、いつでも寄せてください。詩人本人に会う機会があれば尋ねてみても面白いなと思っています。