沈黙交易とネット上のコミュニケーション

雑誌『すばる』に今年の1月から連載中の今福龍太さんの「群島 - 世界論」に毎回深い感銘を受けている。わけあって第三回「浦巡りの奇蹟」(『すばる』3月号所収)を読み直していて、小さな発見があった。それはインターネット上のコミュニケーションについて考え続けて来た私にとって、ひとつの重要な認識につながる発見でもあった。
今福さんは「沈黙交易」という、人類の原初の経済行為、交換行為(コミュニケーション)の原形に関して次のように書いている。

沈黙交易の場には、異部族・異種族が境を隔てて住む山の峠などが利用されたこともあるが、もっとも典型的な場は、流れで囲まれた河の中洲や、それぞれの土地から等距離にある沖の小島の汀などであった。一方がそこに何かモノを置き、退く。そこへ他方がやって来て確認し、気に入ればそれを持っていって、別のモノを置いて去る。いっさいの言語的コミュニケーションも身体的接触も欠いたこの交換行為は、しかし、モノの有用性や経済的価値が交換条件にはなく、むしろ、交換による暗黙のコミュニケーションへの信頼が前提とされている、という点で、等価交換の展開としての近代市場経済の原理が成立する地平とは、別種の地平を指向している。何か異なるものが、自らのテリトリーに寄りつく、その偶然と必然を、一つの「信」の構造へと変換してゆこうとする心意が、こうした沈黙交易の根幹にある原理だとすれば、それはむしろ贈与行為の延長線上にある、すぐれて反市場経済的な実践であるというべきだろう。(p.252)

沈黙交易の現場では、地所も所有物の転変も、すべては自然界からの贈与の環によって律せられていた。そこで「所有」することは、「与える」ことの連鎖によって成立する信の構造に裏打ちされるような何かだったのである。
ブロニスラフ・マリノフスキーが(……)『西太平洋の遠洋航海者』で詳細に描き出したトリブリアント群島の島伝いに成立する贈与交換の環「クラ」の構造もまた、所有という観念が、無私の贈与がもたらすコミュニケーションへの信頼によって裏打ちされていた世界の構成原理であった。そこで所有することは、寄りつくものをいただき、ふたたびそれをどこかに向けて与えてゆくという行為の連鎖にほかならなかった。(p.253)

私はこの記述を読みながら、これは私が日々ネットで、ブログで、感じているコミュニケーションそのものではないか、そして、いわゆる「オープンソース」の運動と精神の根幹は正にここで語られていることではないか、と思ったのです。こうしてブログで発信することは、ネット上の「峠」や「中洲」や「小島の汀」みたいな場所に、自分の大切なモノを置くことで、それを誰かが気に入れば持って行く。検索することは、逆に誰かが置いていったモノのなかから気に入ったものをいただいてくることだ、と。もちろん、交換されるモノが「言葉」中心なので、ややこしい面があるのはたしかですが、私がネットで感じ続けて来たコミュニケーションの可能性の本質はそこにあったのだと再認識しました。それがなければ、ないと確信できれば、とっとと「off the grid」したでしょう。
今福さんが人類学のジャンルを超えて、古今東西のテクストを精力的に猟歩しながら次々と見出して行く「反市場経済的な実践」(の契機)としての一種の贈与行為としてのコミュニケーションの可能性は、その「信頼」を鍵概念として、ネット上のコミュニケーション(経済行為を含めた)の行く末にも光を当てていると思います。