写真の物語性

『横浜逍遥亭』の中山さんが、橋村奉臣作品の「瞬間」とならぶ「“腐敗”」をテーマにした作品について大変興味深いことを書かれている。
「橋村奉臣作品の機知」http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20060919/p1

皿に盛られた洋梨、ブルーベリー、イチゴが次第にカビに埋もれていく様をたどる3つの連作、腐敗物に黒々とまみれた洋食器とナイフ・フォークを写した『クリスマスの思い出』

中山さんは、『クリスマスの思い出』などに、普通はタブー視されがちな「“腐敗”」という不可避の「時間の推移」を、熟慮された「画と物語の融合」によって、観るものに「スペース」を与えながら、直視、直面することへと巧みに導く、ある意味では優れて「教育的」とも言える「機知=戦略性」に言及されている。鋭い!
中山さんがリンクされている「個展開催告知チラシ」の写真を見ても、腐敗や汚れが本当に「美しく」感じられるのは、中山さんが指摘する橋村奉臣氏の「ウィット」の故だと思う。実物が見たいなあ。
中山さんの文章を読んでいて、タイプは違いますが、やはり「腐敗=美」を追求するような荒木経維さんの一連の写真を連想していました。また、今朝、朝日朝刊で読んだ吉本隆明さんの現代の「老い」をめぐる言葉をも連想しました。
2006年9月19日(火)朝日新聞(朝刊9面)「吉本隆明さんと考える現代の『老い』」
「老い」が徐々に他人事ではなくなってゆく時の経過も避けられないもので、吉本さんのようにちゃんと「老い」に向き合える老人になりたい。大分以前に評判になった赤瀬川さんの「老人力」をも連想していました。我が家では「老人力」は合い言葉にもなっています。
それにしても、「時」は得体が知れないものだと思います。美が美たる所以の「儚(はかな)さ」の感覚は腐敗や老化や死という時の必然から生まれるのは確かなような気がします。