Let's make something happen

受講生のみなさん、こんにちは。

昨日初回の講義はどうでしたか。直前のエントリーで、「舞台裏」を一部暴露しておいたので、読んどいてください。さて昨日は、難しそうな「言語哲学入門」への「入門」として、言語、言葉をはなれて私たちの人生はないし、どんなことでもいい、何かについて「考えない」=「哲学しない」日はない、でしょう、という出発点から、でも、言葉って難しいよね、うまく考えることも難しいよね、という私と皆さんの共通の土俵を確認した上で、私自身がずっと考えつづけていることなどをお話しました。やむなく出席できなかったひとのために、以下、講義内容を実況風に再現すると:

さて、それにしても世の中かなりヤバくなってきているようなんだけど、自然環境、地球環境的にも、これについては音楽家坂本龍一さんのブログなんかを見ておいて、そして人間環境、国際環境的にも、暗い話題ばかりで、明るい話題はなかなかないでしょう。ひとつには歴代のアメリカ政府がやってきたこと、あのチョムスキーが告発し続けてきた、極悪非道の数々によって、今や世界中に争いの火種がバラまかれて、不安定きわまりない状態になっているよね。

そもそも、僕らヒトも含めて生命は宇宙の中で非常に不安定な、震えるようなかりそめの安定をかろうじて維持している奇跡的な存在なわけですが、そういう意味では、個人としても、集団としても、不安定なのが当たり前なのかもしれませんが、しかし、ある時期までは、人類は、そういう不安定さをうまく手なづける賢い術を駆使していたはずのに、いつの頃からか、より不安定さを増幅、促進する歴史を歩みはじめてしまったようで、困ったもんだよね。

その困った、絶望的な「悪」を払う、「悪魔払い」を孤高に続けている偉い人もいて、そのひとりに、今年はじめここ札大にも来たル・クレジオっていう作家がいるんだけど、知ってる?菅啓次郎さんが訳した『歌の祭り』の特に最終章「大洪水に抗して踊る」は面白いよ。翻訳というフィルターはかかっているけど、訳している菅さんていう人が実はル・クレジオの向こうを張るくらい意識の高い人だから、邦訳を読んだだけでも、言葉をいかに使うか、そしてどう考えるか、について、色々と示唆的だから、是非読んでみて。

自分の日々の生活を省みても、何かいいことが起りそうな予感とともに目覚めて、その日一日をわくわくしながら生きるなんてことは、想像もできない、時代、社会を、生きているような気がするのは、俺だけかな?みんなどう?分かんないけど、少なくとも、一日の大半を過ごす、この大学の授業のなかで、わくわくしているようには思えないよな。でも、それこそ、ちょっと考えてもらいたいのは、今、ここに、この教室にこうしてみなさんといるわけなんだけど、なぜ?どうして、君たちは、いま、ここにそうしているわけ?

いろいろと挙げられる現実的でもっともな理由は煎じ詰めれば、システム、体制の都合にすぎないもんだよね。本当に何かを学びたい、知りたい、つかみたい、身につけたいと真剣に思い込んで、今、ここにいるわけじゃないよね?それって、ごく普通のことになっているけど、それだけになってしまっている自分をほっとくと、かなりヤバいと思わない?かく言う、俺だって、気を抜くと、給料のためって、なっちゃいかねないわけだよ。それはそれで仕方のないことでもあるんだけど、それだけに終わっちゃ、人生空しいと思わない?

俺は強くそう思うんだよね。だから、何かプラスアルファなことを、この授業、この教室で、みなさんとやりたいわけ。つまり、何か面白いことが起りそうな予感がするような授業。もう少し言うと、何か面白いことを起こせそうな自分に変われるような授業。どう?いい?

ところで、この授業で教科書に指定した、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だけど、もう買った?岩波文庫で千円しないからさ、七百円かな、で買えるから、それにこれはすごい本ですから、みなさんの一生の宝になるかもしれない本ですから、是非買っといてくださいね。

ウィトゲンシュタインって人は、かなり変った人だったようで、狂気すれすれのところで、人生の深い問題をいろいろと考える、言葉にすることに、生涯をかけた、すごい人なんですけど、この『論考』、『論理哲学論考』を『論考』、または原題の頭の単語だけとって『トラクタートス』って縮めて呼ぶことにしますが、これは、考えたことのまとまりを数段階のブラッシュアップを経て、しかも、主題の変奏曲を奏でるように、何度も並べ替えたりして、かなりマニアックな操作をへて、作曲されたような、プログラミングされたようなテキストなんですね。

ですから、見た目も、番号が割り振られていて、奇妙ですが、内容的にも、普通に「読む」ことは不可能です。最初はピンと来る箇所を広い読みするのが、いいでしょう。10年、20年かけて、じっくりつき合うタイプの本です。そんな本をなんで半年足らずの講義の教科書に指定したのかと、当然、疑念を抱いたでしょうね。しかし、そんな本だからこそ、選んだのです。この講義は半年で終わりではない。終わるのは大学の制度としてであって、この講義の中身は10年、20年先の皆さんの人生を見越したものである!のですよ。

いやいや、大げさに響くかもしれませんが、そもそも「哲学」ってついているでしょう。シラバスにも書いておきましたが、言語をただ分析的に料理するのが言語哲学、少なくともウィトゲンシュタインが言語をめぐって考えたことでは、断じてないんです。こうして生きていること、生きてきた/いる/いくであろう世界、それらについてどう考え、どう言葉で表すことができるか、あるいはできないか、等々、というような誰にとっても大切な問題とじっくりつき合うことなんです。

あっ、そうそう。この講義は春学期の「論理学入門」と内容的にペアになっているんですが、論理学入門をとらなかった人のために、簡単におさらいすると、人生、世界、思考、言語一般の限界は経験と論理にある、ということをやりました。すなわち、一方では経験によって世界の存在論的地平が与えられる。それには個人差がある。もう一方では論理によって、意味のある言語表現のマトリクスというかマップというか、可能性の全体が与えられる。だいたい、ここまでが、『論考』関連の春学期の「論理学入門」でやったことです。

その先の、経験の限界が意味することのひとつとして「独我論」という奇妙な世界観が登場する。ここが『論考』に直関係する、「言語哲学入門」でひとつの「入口」兼「出口」になる主要テーマです。

それと、文化学部の学生さん、詩人の吉増剛造さんの集中講義とってるひといるでしょう?吉増さんが『The Other Voice』という詩集、というか生々しい思考と言語の格闘の現場みたいな本があって、そこでウィトゲンシュタインの『論考』に言及してるんだけど、知ってる人いる?すごいよ。『論考』の第一命題だけから、『論考』全体の核心、秘密ともいえる場所というか、ウィトゲンシュタインの「肉声」というか、そこを狙い済まして撃ったようなことを書いているんですよ。しかも、「The」の一語と、「,」(カンマ)の使われ方から、なんです。私は正直詩人の眼力に恐れ入りました。それで、講義計画では「詩と哲学」と題した回が設けてあるわけですが、次回は、『論考』の第一命題を日本語、英語、ドイツ語のマルチリンガルな視点から見えてくることも学びつつ、そのあたりから再スタートしますね。

ところで、9/30に、写真家の荒木さんが来るの知ってる?まだ席に余裕あるみたいだから、是非足を運んでください。なぜ勧めるかっていうと、荒木さんは、make something happenな人生を確信犯的に生きている稀有な日本人だからです。かなり魅力的ですよ。
……
(これ以上再現するのは無理……。)

こんなことは毎回やってる余裕はないので、たぶん、今回だけです。みなさん、ちゃんと講義に出ましょうね。Let's make something happen.