ウィネドゥマ・ホテルのスケッチブック

ブログをやっていなければ起こりえなかった繋がり、出会いが、さらに新しい段階に突入した。
10月20日のエントリー「魂の場処」のコメント欄で起った『三上のブログ』における革命的事件、私の学生とブログのゲストの方々がやりとりを始め、それは10月21日『横浜逍遥亭』にも飛び火したという出来事に、私は言葉にならない感動を覚えていた。ブログのおかげで私自身が見ず知らずの方々とつながっただけでも驚くべきことだったのに、とうとうそれを超える段階の繋がりがうまれた。その瞬間の喜びを私は一生忘れないだろう。

私の学生、という言い方はフェアではない気がする。たまたま私の講義をとっている学生とブログを訪ねてくださった方々とのやりとりを、私はなぜか傍観していた。悪い癖でついつい下手な間の手のようなコメントを差し挟んでしまったが。自分のブログで主人を差し置いて、他人同士がコミュニケーションしているのを眺めるという初めての体験は、私をまるでカフェのマスターにでもなったような気分にさせた。それは悪い気分ではなかった。むしろ非常に新鮮で喜ばしい気分だった。『三上のブログ』とか、コメントに書いた『三上自由大学』(これは『札幌自由大学』のほうが少しはましだなと後で思った)なんて無粋な看板は降ろして、『カフェ・〜』にしようか、とさえ思ったくらいだった。今福龍太さんの「カフェ・クレオール」に倣って、「カフェ・メモワール(cafe memoires)」にでもしようか、と。

こんな反則気味のメタな語りをどうか許してください。書かずにはいられなかった。そして、やりとりの中身を拝見しながら、私はずっと「地球」のことをイメージしていた。bookscannerさんのお陰で、美崎薫さんの仕事に出会って、自分がいままで盲滅法にやってきたことがすべて「記憶」の問題に収斂することに気付いた私は、ある意味ではもう後戻りはできない場所に出てしまったと思った。私が理由不明のまま何かを感じ続けて来たインターネットは、地球上に張り巡らされ、日々増殖をつづけるネットワークで、それはグローバル・ブレイン(地球脳)となることを宿命づけられたものだという認識の輪郭をすこしずつ描いてきたかもしれない。奄美大島が巨大な一個の脳、ないしは記憶想起装置だと感じた私は、インターネットこそ究極の巨大な脳、人類にとって最大の記憶想起装置なのかもしれないとも思っていた。

しかし、他方では、この地球上で、あるいはネット上で出会った人々の個々の記憶にとどめられた散在する私の痕跡こそが本当の「根」なのかもしれないとも感じていた。例えば、今でも忘れられないアメリカ滞在中にアメリカ先住民の記憶を求めておとずれた「死の谷(Death Valley)」で出会った人々。特に近郊の小さな町で投宿した古い小さな宿、ウィネドゥマ・ホテルをほそぼそとやっていた親子三代の家族の方々。二代目の「出戻り」のルビーは数百人のゲストの似顔絵が記録された分厚いスケッチブックに私の記録を加えてくれた。「持ってく?」と聞かれたが、私は「いや、ここに残しておきたい。写真だけ撮らせて。」と言って、完成した似顔絵をこちらに向けた彼女を、撮ったのだった。

あの似顔絵が記録されたスケッチブックがあそこにあると想像できるかぎり、私が、あるいは誰かがあそこに行けば、私が2004年6月2日あそこにいたことを知ることができると想像することができるかぎり、私はなぜかとても幸せな気持ちになる。上の写真はネットで漂流するだろうが、私にとっては掛け替えのないものに思えるあのスケッチブックは永遠に電子化されないだろうな、と思うと愉快だ。