写真に隠された時間:まだ見ぬHASHI展のための予習最終

車を運転中にひらめくことが多い。特に夜間。でもほとんど忘れてしまう。メモパッドは常備しているが、記録し損ねることの方が多い。今夜は記録こそできなかったが、なぜかひらめいたときの印象があまり薄れず、辿り直すことができた。「ひらめき」と言っているのは、かけ離れた事実が突然「つながる」ことで、一種の連想であり、一種の想起でもあると思う。

夜の真駒内(1972年、札幌冬期オリンピックが開催されたときの中心地)を通り過ぎようとしたとき、なぜか春学期の授業の一こまが想起された。地球から数十億光年離れたところで起きた銀河衝突の美しい写真を「見る」という経験の意味を説明していたときのことだった。

見る、見えるということは、その対象物からの光が届くということだよね。日常生活のスケールではそれは「瞬間」といっていいくらいの短い時間しかからないから、「今見える」と言っても問題は起きないけど、宇宙の話になると、桁違いのスケールの大きさになるから、対象物から光が届くのに想像を絶する時間がかかるわけですよ。この写真に映っている銀河衝突から光が地球上に届くのに数十億年かかっているんだ。つまりこれは数十億年前というとんでもなく遠い「過去」の出来事の情報なんだよ。「今見てる」と思っているのは数十億年前の出来事。いいですか?不思議だよね。だから、今この時には、これに映っている銀河は存在しないかもしれない。でもそれを知ることはできない。数十億年後にならないとね。つまり僕らは過去を見ているわけだ。そこで、この「真実」を日常の経験に応用すると、何が言えますか?そう。今この瞬間、現在、見えているものの姿は、厳密には「過去」の姿だということだよね。そして僕らは厳密には決して「現在」を見ることはできない、と。「現在」を見ることができるのは言わば「未来の目」ということになるよね。でもそれは不可能ですよね。

この想起に継起するように、人間の認知における原理的な「遅れ」に関する美崎薫さんや茂木健一郎さんの科学的な言葉も想起された。

そして、昨夜、私なりの、まだ見ぬHASHI展の予習最終と思い定めて書いた文章のことを思い出した。実は今朝になって何かが決定的に欠けていると感じ始めていたのだった。それが何なのかは分からなかった。しかし、そのヒントが、上のような一連の想起のなかにあるように感じたのだった。ひらめき。

そのひらめきの内容を書いておきたい。

私は厳密には世界の「現在」の姿を見ることは出来ず、「過去」の姿をしか見ることができない。もし世界の「現在」の姿を捉えようとするなら、「未来」の位置に立たなければならない。しかし、それは不可能だ。

だが、待てよ。

それは現実世界を見る場合のことで、写真を見る場合には何か決定的に違うことが起っているのではないか。

写真を見るとは、私にとっては世界の過去の姿を見るという現在の行為だが、写真の側、あるいはそこに映っている被写体の側から言えば、「未来」から見られることを意味するだろう。荒唐無稽な擬人法的表現と受け取られかねないが、写真や写真に映っている被写体は過去のある時点から現在という未来を見ている、と言えるのではないか。あるいは、フィルムを網膜に相当すると考える。そして網膜の代わりに、フィルムに直結した脳、心、そしてそこで生まれる主体を想定すれば、写真が「見る」という言い方もあながち無意味ではないのではないか。SF的かもしれないが、可能性がある。

もしかしたら、写真家とはフィルムに直結した心の持ち主のことなのかもしれない。写真を見るという経験には、あちら側から、過去から、写真家が、こちら側、現在を見るという隠れた構造がある。そして、その過去からみれば、現在は未来に他ならない。そうだとすれば、写真展とは、時間を過去の方にずらし、現在を未来にする実はとんでもない舞台、装置なのかもしれない。HASHI展第二部『未来の原風景』という謎めいたタイトル、特にその「原=オリジナル」の意味はどうもその辺にあるような気がしてきた。

こんな想像をしてしまうのには、実は当初から「HASHI[橋村奉臣]展」という表記の仕方にひっかかりを感じていたことも関係しているようだ。というのも、例えば、「HASHI」とは「橋村奉臣」のニューヨークでの愛称であるというような類いの「常識」に収まらないような何かがあるような気がしていたからだ。すなわち、現実世界を動き回り、舞台を作るのは「橋村奉臣」で、写真の向こう側(過去)からこちら側を見ているのが「HASHI」である、と言えるような飛び切り素敵な「からくり」が。

ここまでが、私の「まだ見ぬHASHI展のための予習」の限界のような気がする。どんなに予習しても、結局は、飛んで火にいる夏の虫ってことになりそうな気配が濃厚ではあるのだが。