ある婦人に渡ったポストカード:HASHI[橋村奉臣]展を訪れて3

10月28日(土曜日)と29日(日曜日)の二日間の間に色んなことが起った。中山さんには「奄美時間」からは抜けましたか、と冷やかされたが、奄美時間はかつての異質な時間からいつの間にか私の固有の時間の一筋に縒り合わされてしまったようだ。

東京行きに道連れにしたものはいっぱいあって、恥ずかしくて書けないものが多いのだが、家を出る直前に、「これも」と直観してバックパックに忍ばせたのが、W.B.イエイツ著『ケルトの薄明』(ちくま文庫)だった。千歳空港に向かう高速バスの中で、何気なくページを捲っていると、今まで見えなかったものが見えてきてびっくりした。それは、今日実際に初めて会うことになる方々への、これまでのブログ上での、ネット上でのご恩への返礼に少しはなるかもしれないと感じたイメージだった。

私は「お土産」を買ったりするのが得手ではない。その代わりにと思った私は、そのイメージ=言葉を、これまた独りよがりの性格から、自作の粗末な名刺の表裏に、お一人お一人のネット上での言葉のやりとりだけの中から浮かび上がる面影を念じながら、丁寧に筆写した。そんなある種の「贈答の哲学」を私は詩人の吉増剛造さんから学んだような気がしている。

筆写は、高速バスの中では揺れがひどく3枚失敗し、一時間遅れのANA56便の出発を待つロービーで3枚仕上げ、羽田空港に着くまでの機内で残りを仕上げた。筆写しているうちに、「灰色」という言葉が気になり始め、自分の書くその漢字では、「がんだれ」から「火」が飛び出しかけていることに気付き、ちょっと驚いていた。その「灰色」という文字の部分を灰色で塗りたくなった。

出来過ぎと思われるかもしれないが、私のバックパックの小ポケットには上のような超小型の12色の色鉛筆セットが入っている。縦8センチ弱、横5センチ、厚さ5ミリ。色鉛筆の直径は4ミリ。今まで使ったことはなかった。普通の感覚では使用に耐えるサイズではとてもない。しかし、絶妙な使用のタイミングが巡ってきたではないかとその時思った。ところが、肝心の灰色がない。残念な気持ちを払拭できずにしばらくその12色の色鉛筆を眺めていた。すると、そうだ、別に灰色でなくともいい。お一人お一人の面影に相応しい色を塗ろう。そう思い直した私は記憶のページを高速で捲るようにして、六人の方々の色を楽しみながらチョイスして、筆写した文字の「灰色」と「時」と「心」の部分にそれぞれの色を塗った。念のために、余計に三枚分を筆写し、残りの三色を同じように塗った。

28日の恵比寿のVACANZAでの宴もたけなわの、あるタイミングで、その「お土産」を、ちょっとした演出を施して皆さんに差し上げた。演出といっても、私が選んだ皆さん固有の色を当ててもらうという「お遊び」だった。当たりもあり外れもあったが、面白かった。驚いたのは、私が選んだ橋村さんの色は紫だった。いつも黒のTシャツをさりげなく着こなしておられるらしい橋村さんには黒が相応しいかもしれないとも思ったのだが、なぜか私は紫を選んだ。それを聞いた橋村さんは、ちょっと驚いた様子で、本当は紫が好きなんですよ、と言ってくれた。本当かどうかは分からないが。予備に作っておいた「お土産」は良子夫人と永見さんの手に渡った。

話はちょっと戻って、千歳空港の出発ロービーでは、私が筆写に夢中になっていると、英語を話す集団が私を取り囲むようにして、陣取った。最初私は顔を上げずに、書き続けた。ふと顔をあげるとアジア系の旅行客、大家族のようだった。その内、英語に中国語が混じり始めた。お祖父さんらしき人だけ中国語しか話さないようだった。3人の子供たちは英語しか話さないようだった。お父さんらしき人は英語と中国語を見事に使い分けていた。お母さんは英語しか話さなかった。搭乗するまでの間、筆写を続ける私の耳には、スピーカーを通した粗雑な音声の若い女性の舌足らずの日本語以外には日本語は聴こえて来なかった。英語と中国語の音の波に揺られながら、気持ちよく、私は筆写し続けていた。

29日(日曜日)午前中は、念願の美崎邸、「記憶する住宅』を訪問した。その深遠な体験記は別にまとめて書くつもりである。その前後、都内を中山さんに導かれながら、電車を次々と乗り換えるのを楽しんでいた私は、色んなことを発見していたのだが、私が指摘すると、中山さんもちょっと驚いてくれた一人の若い女性がいた。私たちの前を、4、5歳の男の子の手を引き、颯爽と歩くある若い女性、お母さんだろう、だった。背中のど真ん中に、古いNikonのF3(?)カメラがぶら下がっていたのだ。そのカメラは亡き父の遺品の一台と同じだった。しかも、私は昨日からカメラ、写真の世界に浸っている。何かの縁を感じた。一瞬、その女性の人生の一部が見えるような気がした。

その日の午後、すでに札幌での生活に換算すれば一年分くらい歩いた気がしていて、脚が棒になった私は、中山さんと、とあるカフェでしばし休憩した。注文したエスプレッソを持ってオープンテラスで席をとった。一帯が禁煙の中、すぐ近くに喫煙コーナーを見つけた私は、煙草は吸わない中山さんに断って、そこでマルボロを1本だけゆっくり吸った。その時偶然隣り合わせた若い男性は、おもむろに高価そうなCanonデジタル一眼レフカメラをバッグから取り出し、数枚シャッターを切っていた。思わず私は話しかけてしまった。彼は非常に丁寧な言葉遣いで、カメラのことや、つい今しがたHASHI[橋村奉臣]展を観て来たところだと語ってくれた。私も私のHASHI[橋村奉臣]展の感想の一部を語った。わずか数分の出来事だったが、数分ずれていれば、彼とは出会わなかった。

二度目のHASHI[橋村奉臣]展訪問を後にして、羽田空港に向かい、わざわざ見送りにきてくださった中山さんと空港内の洋食屋アカシアで夕食を共にした。中山さんとは、二日間、ずっと色んなことを話しつづけていた。ブログとメールでのやりとりがなければ、ありえない会話の進展具合だった。私はロール・キャベツとハヤシライスのセットを、中山さんはロール・キャベツとカレーライスのセットを注文した。なかなか美味かった。

千歳空港に到着して手荷物を受け取り、ロビーに出た私はさすがにかなり疲れていたせいか、札幌行きの高速バスが出発するまでの40分をぼーっと過ごした。出発10分前にバスに乗り込んで、手帳にメモしていると、一人の婦人が遠慮勝ちに話しかけて来た。最初は要領を得なかったが、長い筒、と聞いてびっくりした私は一瞬呆然とした。橋村さんにサインもしていただいた大判のポスターの入った筒を、それまで大事に持ち続けていた筒を、なんということか、私はどこかに置き忘れたのだ。バスの出発5分前だった。彼女の機転のお陰で、ポスターは空港内の案内カウンターに預けられていて、無事私の元に戻って来た。胸をなで下ろした。

実は彼女は飛行機から降りるとき、すぐ前を長い筒を大事そうに持っている男がいたことを記憶していて、その同じ長い筒が、ロビーの木の椅子、ちょうど筒と同じような色の椅子の上にポツンと置かれているのを発見して、カウンターに届けた。そして4路線ある内のたまたま乗った札幌真駒内行きの高速バスに、その筒を持っていた男に似ている私を発見した。しかし当人かどうかは確信がない。かなり迷った挙げ句、彼女は申し訳なさそうに、私に声をかけてきたのだった。

うれしかった。こんな親切に出会うとは。私はいても立ってもいられなかった。何かお礼をしない訳にはいかない。どうしようかと考えた末に、私は橋村さんからいただいたポストカードのセットを、止む無く、その婦人にお礼として差し上げることに決めた。せっかくいただいたものなのに、もったいないことをするな、という声も聞こえたが、私はその声を押さえ込んで、思い切って、差し上げた。彼女は、とんでもない、と受け取るのを断ったが、この大事なポスターを見つけてくださったお礼として是非受けとってください。これは本当に大事な写真のポスターで、写真家ご本人の橋村さんのサインまではいっているものなんです。こちらはその同じ写真のポストカードも入ったセットですが、僕にはこれがありますから。どうぞ、感謝のしるしに受け取ってください。しばらく躊躇していたその夫人は結局快く受け取ってくれた。そして眼を輝かせて、「私、実は写真が大好きなんです」と言って胸に押し付けた。その婦人を介して、HASHIの写真は、札幌のどこかに種を蒔くかもしれないと思った。