時間の標本のような:HASHI[橋村奉臣]展を訪れて5

HASHIGRAPHY―Future D〓j〓 Vu《未来の原風景》

HASHIGRAPHY―Future D〓j〓 Vu《未来の原風景》

『未来の原風景』は異様だった。一つ一つの作品はまるで標本箱のようだった。HASHIGRAPHYを施されたプリントはその箱の空間の手前のガラスに私の知らない方法で貼付けられていた。そして各標本箱のような作品には、個別の凝った手作りの覆いが施されたほの暗い照明が当てられていた。手前のガラスに張りついたプリントは何らかの規則性を感じさせる幅の「影」を落としていた。「何なんだ、これは?」私は大げさではなく気絶しそうになった。ただ、見ているだけではダメだと感じた私は思わず意味深なタイトル他を克明に手帳に記録していた。

薄暗い四つの部屋を何度も繰り返し出入りしているうちに、なんとなく、これは「時間を封印した標本箱」だと気づき始めていた。しかし、どんな「時間」がそれぞれの箱、空間に封じ込められているのかは不明のままだった。死んでも語れない真実の時間が、「語れない」というメッセージとして、誰にも「読まれない」というメッセージとして封印されているような気がしてきた。こんなことをしていいのだろうか、とさえ私はどこかで感じていた。公になっている橋村さん自身の言葉はとうてい信じる気にはなれない。

時間を封じ込めることはできない。封じ込めたと思った先から、封じ込めたつもりの時間が血を流しながら滴り落ちる。図らずも私は今回東京に携えたお土産に託したイエイツのイメージが「時は滴り落ちる」だった。

未だ見ぬ段階で私が想像的直観で書いた『未来の原風景』の「原=オリジナル」への引っかかりは、その辺に関係していたのだということが今にして分かる。過去、現在、未来、という言葉に惑わされては、実は何も見えない。しかし、惑わされずに見えるものは、見てはいけないものなのかもしれない。分からない。