Future Deja Vu:HASHI[橋村奉臣]展を訪れて6

今までに体験してきたことの多くが、「記憶」と「時間」というキーワードの下に、凝集し始めている。奄美自由大学においても、HASHI[橋村奉臣]展においても、美崎薫氏の「記憶する住宅」においても、私がつかもうとしていた何かは、必ず「記憶」と「時間」に関係していた。講義で学生たちに伝えようとしていることの核心部分もまた「記憶」と「時間」に関係している。今日の講義「情報デザイン論」のテーマも「時間のデザイン」である。

「HASHI[橋村奉臣]展+人間・橋村奉臣」ショックからまだ完全には冷めやらぬ私だが、前エントリーでもがきながら書いた私なりの『未来の原風景』論を読み直してみると、そこにはHASHIGRAPHYに対する私の主観的な「時間」に関するビジョンが過剰に読み込まれていることを認めざるを得ない。しかし、そうさせる謎の力がHASHIGRAPHYにはあったのだから仕方がない、としか言いようがない。

HASHIGRAPHY―Future D〓j〓 Vu《未来の原風景》

HASHIGRAPHY―Future D〓j〓 Vu《未来の原風景》

ところで、写真集『未来の原風景』のタイトル中の「原」にこめられたメッセージを私は不注意にも「オリジナル」と等値しながら、すっきりしない引っかかりを感じ続けていた。迂闊なことに今朝になって、それこそオリジナルタイトルは"Future Deja Vu"であることに改めて気づいて、そういえば、橋村さんが筆でサインするのを目の前で見ていた私は"Future"(「未来」)の後ろに"Deja Vu"(「既視」)が添えられるのを不思議に感じていたことを思い出した。既視される未来。

未来とは未だ来ぬものの謂いである、と以前書いた。既視される未来とは、未だ来ぬものを既に見てしまったことを意味する。未だ到来していないが、必ず、必然的に到来するであろうものを見てしまう。その視線の下に、現在をその未だ到来しないものに向けて押し出すような力、エネルギーを引き出す。どこから?過去から。

これは、たんに、将来のために現在を犠牲にするという素朴な考えでは全くない。むしろ、現在を将来にわたって死守するために過去をいわば作り替えるという途方もない力技を必要とさえする思想の宣言かつ実践である。

しかし、宣言は余分な根を切り捨て、己を漂流させることになる。その漂流に耐える覚悟がなければ、そんな宣言をすることはできない。そしてそのような宣言を実践し続ける限り、切り捨てた場所から「血は流れ続ける」。美崎薫氏が語ったように。

一体、私たちは、どんな現在のために、何を死守し、何を切り捨てなければならないのか。

「HASHI[橋村奉臣]展+人間・橋村奉臣」体験において、私がつかもうとしている核心は、どうも、そのあたりに潜んでいるような気がして来た。そしてもしかしたら、HASHIが切り捨てたと思った「根」が、彼が死守しようとする「場所」に、実は執拗に根を下ろそうとしているのかもしれない。どんなに切り捨て、封じ込めようとしても、そこから滴り落ちる時間=血の流れを止めることはできない。