来日中の指揮者ニコラウス・アーノンクールのインタビュー記事を読んだ。来日公演で指揮したというモーツァルトの「レクイエム」が聴きたかった。
- 朝日新聞2006年(平成18年)11月22日朝刊23面文化欄「挑戦、それは私の義務」
その中にはアーノンクールの非常に興味深い発言が多々読める。興味深いのはそれらが狭い意味での音楽の脈絡を超えた普遍性をもつと感じられるからである。
- 一番よくないのは、仕事がルーチンに陥ること。作品には、常に新しい態度で臨みたい。
- 一筋縄ではいかなぬ生徒で、常に先生の言うことを疑っていた。
- バッハもマーラーも楽譜の見た目は同じようでも、音符の指示する内容がまったく違う。同じように演奏したら、バッハの方が退屈にきこえて当たり前。
- 楽譜を読むのは、絵画に向き合うのに似ている。同じ絵を数人が見たら、それぞれが違う想像力をかきたてられるでしょう。その数人が議論し、その想像力を束ね、ひとつの作品をつくってゆく。私たちがやってきたのはそういう作業。
- 拒否も批判もなく新しいことが受け入れられ、新たな流れを作り出すことなどない。
- 作品が生まれた当時の楽器を使っても、音楽の「再現」などできない。音楽を実現するのは、あくまで演奏家の想像力。その演奏は今日の聴衆のためにある。
- 聴衆が服を引き裂いて熱狂するほどの演奏をしたい。
- すぐには受け入れられなくても、作品から常に何かを「再発見」しようとする姿勢が大切。
- 私にとって、挑戦はやりたくてやるものじゃない。むしろ義務なのです。
私はアーノンクールの「義務」という言葉の使い方にはじめ驚いたがすぐ合点が行った。アーノンクールのいう「義務duty」は、「義務教育compulsory education」の義務(社会的強制compulsory)ではない。それは「人間である」、「人間になる」ための必須の条件のような「挑戦し続ける義務」である。思うに、このような「挑戦し続ける義務」を見失った大人たちが子供たちの教育をたんなる「強制」のアラカルト以上のものに仕立て上げられるわけがない。
古楽の重鎮として今や音楽会の「大家」とも評されるアーノンクールだが、指揮者と楽団という主従関係ではなく、全員が対等の同志となるウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを生み、育てたことにも顕著にあらわれているように、彼のつねに挑戦し続けているところをしっかりと見るべきだと思う。
アーノンクールのクールな公式サイトのホームページには、超クールな言葉があった。
- Nikolaus Harnoncourt http://www.styriarte.com/harnoncourt/
- "Die Kunst ist eben keine hübsche Zuwaage - sie ist die Nabelschnur, die uns mit dem Göttlichen verbindet, sie garantiert unser Mensch-Sein.“
(ウムラウトの表示のさせ方が分からず。誰か教えて。できました。名無しさん、ありがとうございます。)
- "Art is not a nice extra - it is the umbilical cord which connects us to the Divine, it guarantees our being human.“
- 「芸術は素敵な例外などではない。芸術はわれわれを「神性」へと臍の緒のように繋ぐ紐だ。芸術こそはわれわれが人間であることを保証する。」(拙訳)
この「神性,Goettlich,Divine」を必ずしも宗教的に受け取る必要はない。それはたんなる強制やあるいは放置によっては崩壊しつづけるしかない脆い動物であるヒトがまともな人間になるための里程標milestoneのようなものだと思う。