夜の散歩中、放射冷却で冷え込んで固く締まった雪の上を歩きながら、時代の変わり目って何かなと考えていた。でも、いつだって時代は変化の只中にあるという見方も成り立つわけだから、いつも変化しつづける、震えつづけているのが本当の、リアルな、現実主義者であり、普通の意味での反動的で視野狭窄な現実主義から見れば、夢想家と見えるに違いない、とか。
大雪に見舞われ、早朝から何度も雪かきに追われるような日、普段不機嫌そうな大人達が、体力的には確かにかなりキツいし、口ではもうウンザリだと言いながらも、表情が明るく豊かになり、通りすがりの他人にも声を掛けたりするようになる。心が開かれはじめているのが分かる。毎日大雪に見舞われるのに相当するような変化を感じ続けられれば、いつも心は開かれているようになるだろう。
一見同じことを続けることを、「継続は力なり」とプラスに評価する場合と、マンネリに陥っているとマイナスに評価する場合とがある。特に自分がやっていることを自己評価する際には、後者に傾くきらいがある。よい意味での大きな変化、飛躍や上昇を期待しすぎるからだろう。しかし、厳密に「同じこと」を反復することなどありえない。かろうじて「同じ」といえる枠組みの中で違うことが毎回起こっているのが真相だと思う。
私が毎日メカスの映画を記録しづけているのには、どこか変化に対する自分の感受性を試そう、鍛えようという動機が働いているようだ。こんな「同じこと」を繰り返し続けて何になるのかという声が聞こえることもある。しかし、限られた時間のなかで集中して、感じたこと、調べたことを記録していると、過去の体験が、それこそ短い映画のように思い出され、それらを最近の経験と結びつけたりする(つまり追体験をする、あるいは過去ないし記憶を書き換える)うちに、迷いは消え、実は毎回全然違うことをしていることに気づく。
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それはそうと、そういう経験を私はなぜこのようにブログに報告するのか?書いたものを公開=出版するということは、根本的には誰かに何かを呼びかけるということだが、誰にどう届くか分からないブログ圏(blogsphere)で私は一体誰に向かって何を呼びかけているのか?
詩の言葉の根源的な有り様を探るという脈絡で、詩人の関口涼子さんは、詩を書くという行為は、「他者」としての「言語」への呼びかけではないか、という魅力的な仮説を提案している。
他者に呼びかける行為、届くかどうかわからないけれども呼びかけてみる、という行為、(届くことが自明のことだと思い込み、そうでない時には一方的にいらだつ、(中略)ような態度ではなく)、それは詩という場所にとりわけ鮮明に顕われるように思われます。そして、他者とは、とりもなおさず言葉を意味しているのですから、人への直接的な呼びかけから言葉への(名への)呼びかけへと呼びかけが移された時、詩という場所が必要とされるのです。
関口涼子/宛先人不明につき差出人に返送します(『機------ともに震える言葉』82頁)
言葉が詩の形を取るのは、言葉が実在の他人への呼びかけを禁じられて、宛先人不明の手紙のように送り返される、独特の回路、構造を形成するからであるらしい。
ところで、私はブログの世界、ブログ圏は「詩らしい形」は取らないが、正に宛先人不明の手紙のような言葉に溢れかえった世界のような気がしている。あるいは膨大な無意識の言葉の集まり。そしてブログに記事を投ずることは、姿の見えない相手とのまるでジャズや精神分析のセッションのようで、善かれ悪しかれ、当人の無意識を露わにしているはずである。しかも、こんな大規模に不特定多数のひとびとの無意識が露わになり記録されたことはないはずである。ある意味ではブログは膨大な臨床記録でもあると言えるだろう。
それで、一体、何が言いたいかというと、ブログはセッションであるということだったらしい。私の無意識?