私は常々、本の頁に印刷された文字を読むことと、ウェブ・ページ上の文字を読むことはかなり異質な体験だと感じている。ウェブ上の文字表示の革新性については、私もまだよく理解できていないのだが、いくつか思いついた事を簡単にメモしておきたい。
私がウェブに惹かれる理由の一つは、ウェブにおける「ページ」が本のページとは異なり、原理的に物理的制約のないところである。言わば「無限に広がるページ」というところ。実際には適当なところで区切りを付けはするが、それは便宜的な処置であり、原理的には区切りはないという点が想像や思考の革新において極めて重要だと考えている。つまり、ウェブの「ページ」は見かけ上の存在にすぎない。
そして、そのようなウェブ・ページにおける「改行」もまた、本のページにおける改行とは異なり、見かけにすぎない。本のページの改行に慣れ親しんでいる者の多くは、それに習ってウェブ・ページの文書においても強制的な「改行」を良しとする傾向が強いが、便宜的なインターフェースとしてのウィンドウの幅に合わせて可変的であるのが「本来」である。私は強制的な改行が好きではない。現に、このブログでも改行は可変的である。可変的な改行を「気持ち悪がる」人は本の頁の改行が根深く刷り込まれている人だと思う。
紙の上ではページと改行という足枷をはめられる文字がウェブではその二重の制約から原理的に解放される。それは文字表示が物質的な制約を脱する歴史的な一段階であり、そしてそれはまた頭の中の思考状態により近い文字表示法が誕生したことをも意味するのではないか。(あるいは逆に、思考は頁や改行に相当するような一種の断絶、区切りをむしろ必要とするのだろうか。)
本のページ上で文字表記法と格闘してきたのが詩人たちだった。彼らは様々な手法を考案しながら、紙の上に書かれる、印刷される文字が蒙る制約を食い破るような想像力を発揮してきた。翻って、そもそも「読む」という行為は、本のページと改行に条件づけられた文字たちをそこから解き放ち、別空間に移送することなのかもしれなかった。ウェブはそのような空間に一歩近付いたと言えるのかもしれない。