検索論の射程

CUSCUSさん(id:CUSCUS)が私の2月11日の「初夢」を、ウィーナーの『人間機械論』につなげてくださった。非常に有難いことだ。CUSCUSさんは『人間機械論』から要所を引用しながら、引用に託して興味深い点をえぐり出そうとなさっている。
「よみがえるウィーナー」http://d.hatena.ne.jp/CUSCUS/20070224#1172274229

それは、半世紀以上前の1948年にすでにウィーナーは今日の情報革命後の、10年先か20年先かは分からないが、世界を透視していたということである。サイバネティクス創始者の視線はグーグルの視線に重なる。極論するなら、CUSCUSさんのウィーナー『人間機械論』からの引用にある「即座の破滅か計画された協力か」に近い選択を迫られる世界が近い将来到来する。いつの世にも程度の差こそあれ、そういうことはあるが、今度の奴は規模が桁違いだろう。

「情報技術革命+情報革命」はウィーナーの「予言」をインターネットをグローバル・ブレイン化するという線で実現しつつあるのかもしれない。現代版「人間-機械論」は「脳-インターネット論」に集約されつつあると言えようか。私が「検索」に関する考察を重要視するのは、それが正に「脳」と「インターネット」を積極的につなぐ行動だからである。そして、なかなか難しいメビウスの帯的(?ちょっと違うかな)問題がある。個人が脳の活動を「こちら側」からインターネット規模に拡張する自覚を持てるかどうかということと、「あちら側」での、「あちら側」からの制御や支配の実態がよく見えないということである。つまり、自然=偶然を排除したディズニーランドで遊ばされる精神を作り出した動きと同じ動きがインターネット上で進行していることを少なくとも否定することはできない、ということ。グーグルランド?

翻って、言うまでもないことかもしれないが、「インターネット+パソコン」の環境で考えられている「こちら側/あちら側」の全体は、その環境の外としての<こちら側>に対する<あちら側>だということを忘却しないことが大切である。この<こちら側>とは「世界でただひとつ、絶えず抱いたり撫でたりして抱え込んで、放り出さずに歩き続けてゆくべき感覚と質量の総体」*1としての身体から隔てられながら条件づけられた「私」が生きている世界である。Web 0.0?

*1:村松真理「ソースタインの台所」『文學界』8月号2006、115頁