世界の朝を救うために Le Clézio & kotorikotoriko

私の数少ない枕頭の書の一冊はル・クレジオの『歌の祭り』である。

歌の祭り

歌の祭り

この本はどの頁からも清水の泉が湧くような印象を受ける。*1

二十年前のこと、一九七〇年から一九七四年まで、ぼくはパナマダリエン地方に住むアメリカ先住民の人々、エンベラ族およびその親族にあたるワウナナ族と、生活をともにする機会を得た。この経験は、ぼくの人生をすっかり変えた。世界および芸術についての考え方、他の人々との付き合い方、歩き方、食べ方、愛し方、眠り方、さらには夢にいたるまで、すべてを変えた。
(003頁)

というこの上なく魅力的な書き出しで始まる、ル・クレジオの『歌の祭り』は、「巨大な猿の檻のような都市文明」(219頁)に深い違和感を抱くひとりの作家が、インディオの一部族であるワウナナ族から、「どんな本からもどんな哲学からも学べないような何か」(219頁)を学びとった貴重な記録である。そして、それは次のようにして、読者に手渡される。

現行の世界をおびやかす新たな大洪水に抗して、ひとりの作家にはいった何ができるだろう。ひとりの人間には、それが誰であれひとりの人間には、科学がみずからをよりよく滅ぼすために発明してしまった熱核死に抗して、何ができるだろう。ヨーロッパあるいは地方の都市に住むひとりの人間が世界の朝を救うためには、何ができるだろう。おそらくその人だって、森のワウナナ族がそうするようにただ踊り、音楽を奏でること、つまり話し、書き、行動し、自分の祈りを丸木舟のまわりの男女とひとつに結びつけようと試みることができるはずだ。彼はそうすることができる、すると他の者たちが彼の音楽、声、祈りを聞き、彼と力を合わせてくれるかもしれない。脅威をしりぞけるために、悪しき運命をまぬかれるために。

書こう、踊ろう、新たな大洪水に抗して。
(221頁-222頁)

「世界の朝」とは、

空、水、木々の葉にきらめく光。まだ植物たちや鳥たちや昆虫が支配し、人間はつつしみ深く黙っていなければならない(219頁)

ような時間のことである。

昨日久しぶりに、kotorikotorikoさん(id:kotorikotoriko)の健在ぶりに触れて、なぜか、実は当然なのだが、ル・クレジオを連想した。ル・クレジオにとってのワウナナ族は、kotorikotorikoさんにとっての山下清であり、ル・クレジオにとってのインディオの土地は、kotorikotorikoさんにとってのアビコやマハシのような巡礼の聖地である、と正しく連想した自分を褒めてあげたい。

*1:ル・クレジオについては過去に何度も触れたことがある。その内のひとつ。2006-09-20「ブログという旅の行方」http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060920/1158771720