旅の記録・記憶の旅2:死の谷とペンダント


これは岩塩のかけら。ときどき容器から取り出して舐める。そのほろ苦さの味覚とともに、三年前の心身の記憶が鮮やかに蘇る。私はその時ある不安を抱えてアメリカに滞在していた。日本にいる父親の病気が思わしくなかった。


2004年5月31日早朝、私はカリフォルニア州南東部の田舎町インディペンダンスの1927年開業のウィネドゥマ・ホテル(Winnedumah Hotel)というインディアン名の由緒ある、しかし寂れたホテルの二階のこんな部屋で目覚めた。

周囲はこんな山脈で囲まれた地帯だった。連休を利用した四泊五日の強行軍の旅の四日目だった。その日は旅のクライマックスで「死の谷」の果てにまで行く予定だった。その日のことを三年前の私は次のように記録している。

四日目も7時半に同じメニューの朝食を済ませ、8時半にホテルを出発し、ローン・パイン*1を過ぎ、さらに南下して、いよいよ「死の谷」へ向かいました。年間降水量50ミリという、乾燥地帯です。周囲を高い山々に囲まれて、入り込んだら、生きては外へ出られない「死の谷」として、過去には多くの犠牲者もあったらしく、かなり有名な観光スポットのようでした。ビジター・センターもあり、「死の谷」に関する地学的、生物学的そして人間の歴史を一通り学ぶことができるようになっていました。



水がなく、陽射しが強く、風も強いせいで、岩石の風化が進み、しかも場所によっては塩分が結晶化して真っ白な土地が広がっているところもあります。風化の程度によって、景観にグラデーションが生まれ、遠くから見ると本物の湖が存在するかのように見える場所もありましたが、近づいてみると水はなく、乾ききった塩分の多い土地でした。

そのような果ての一つに「悪い水Badwater」と呼ばれる場所があって、確かに水がわずかに10メートル四方くらいあるのですが、濃い塩水で、その周囲は白い塩の結晶が広がる土地です。僕は甲子園球児のように、その結晶の固まりを手で剥がして持ち帰りました。驚いたのはその「悪い水」の中にも生物は存在したことでした。ミジンコのような微生物がかなり元気よく動いていました。植物に関しては背の低い20センチくらいの草が生えているところもありました。ビジターセンターの資料によると塩分濃度5%までは耐えられる植物だそうでした。名前は忘れました。蛇足ですが、そのバッド・ウォーターからは隣のネバダ州のラス・べガスが目と鼻の先にあり、ロス・アンジェルスも車で四、五時間走れば行けそうな距離にありました。こんなに南まで来たんだなと感じ入ったのでした。

(中略)

そんな「死の谷」にはオアシスともいうべきガソリンスタンド兼土産物屋兼食堂が点在していて、というのも車で移動していても、こんなところでエンストしたらどうしよう、と不安が時々脳裏を掠める土地だから、オアシスと呼ぶのもあながち誇張とは言えないんです-----そう言えば、ラジエター用の貯水タンクが道路脇に数十キロおきに設置されていました-----、そんなお店の一軒に小用を足すために立ち寄ったとき、店先でグラス・アートを売る年配の白人女性に出会いました。日に焼けていたのと、ノースリーブのミニのワンピースの独特のデザインのせいかインディアンのようにも見える風情の知的なシャーマンのような女性でした。僕は彼女オリジナルの作品を物色し、ひとつとても惹かれた三角形のペンダント、透明なガラスに微妙な色と形のパターンが透けて見えるもの、を買いました。ひもを付けてもらって、ちょっと高かったけれど、30ドル、思い切って買いました。

なぜかこの土地のスピリットに通じるお守りが必要だと感じたからかもしれません。彼女は名前をマルガリータといい、マギーが愛称でした。物色している最中から、そしてひもをどれにしようか迷っている間も、マギーと色々なことを話しました。僕が日本から来ていてることを知ると、彼女は三十年前に科学者だった父親と日本に行ったことがあり、大阪、京都などを訪れ、特に印象深かったのが松島だったと語ってくれました。(中略)僕は買ったペンダントをその場ですぐ首にかけてもらい、帰宅するまでずっとかけっぱなしでした。
(「カリフォルニア通信13」*2より)

この旅から一月も経たない内に父の病状が悪化した知らせを受け、私は急遽帰国した。父は病院ですでに死の床にあった。私はマギーのペンダントを寝たきりの父の首にかけた。他に、旅の最終日の帰途にブリッジ・ポートで昼食後見つけて立ち寄ったインディアン・ショップで正真正銘のインディアンのオバさんから買ったブレスレットも父の手首にかけた。アメリカ先住民のスピリットが閉じ込められているような気がしていたペンダントやブレスレットの奇蹟の力をどこかで信じたかった。三週間の付き添いの末、父は亡くなった。ペンダントとブレスレットは父と一緒に燃えた。私は自分の弱さから何か大事なことができなかったことを感じ、後悔した。その何かはまだはっきりとは分からないが、ル・クレジオの『歌の祭り』を読むたびに、病院で死んだ父のことを思い出す。私は父を病院で死なせてしまった…。

*1:三日目にはローン・パインとホテルのあるインディペンダンスの中間にあるマンザナの日系人収容所跡にこの4月にオープンしたばかりの博物館を訪ねた。

*2:当時、日本の知人に不定期でメール配信していたアメリカ滞在記のこと。