魚じゃないんだから Filming as Act:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、3月、89日目。


Day 89: Jonas Mekas
Friday March. 30th, 2007
6 min. 35 sec.

In Helsinki I talk
to the Press people
about the diaristic
experience in the
20th Century
arts --

ヘルシンキで私は
報道関係者にむかって
20世紀の芸術における
日記作家の経験について
語る

司会者:あなたの映画はよく日記と呼ばれますが、いわゆる日記とあなたの映画はずいぶん違うと思います。というのも、日記は人生を整理するところがありますが、あなたの映画はもっとずっと断片的な印象を与えるからです。そのへんの違いについてお話し願えますか。

メカス:それは芸術とは何か、そもそも芸術はどのようにして作られてきたか、という問題だと思うんだ。芸術はあくまで作られるものなんだ。現実の人生の中で。私の映画はたいてい、私自身の人生、友人の人生についてのものだ。いつ、どこに行こうが、いる場所、見るもの、どう感じるか、といった直接的な反応を大切にする。それを日記作家的な記録と呼んでもいい。私の人生の記録なんだ。

書かれた日記では、夕方や夜に一日のことを反省して記録するものだ。そしてそれは起こったこと、一日の間に起こったすべてのことに準備された何か違った光を当てることなんだ。でも、それは私がやっていることほど真実じゃない。

私が撮影するとき、自分の目の前で起こることを厳密に捕まえるんだ。普通、ひとが物事に光をあてるときには、物事そのものよりも感じたいことのほうを映し出してしまう。でも、本当に起こったことこそが問題なんだ。回想録なんかを読むよね。それは過去を振り返ったものだ。でもそれは何か違うことなんだよ。それは本当に起こったことじゃない。あくまで個人的な反省にすぎないんだ。

だから、私がやってることと書かれた日記とはちょっと違うんだよ。それで、私は自分のほうがずっと本来の日記作家diaristだと思っているんだ。

それは芸術の違った形なんだ。日記作家的な音楽があり、日記作家的なダンスがあり、あらゆる形の芸術は過去50年から60年の間に日記作家的な取り組み方の感受性や日記作家的な人生の経験を展開してきた。そういうダンスや音楽のムーブメントがある。それには必然性があったんだ。大事件のような物語ではなくて、本当の人生に向かう、違った内容、本当のことに向かうということなんだ。そこにはもっと沢山のことがあるんだ。芸術のすべてにはもっと沢山のことがあるんだ。ノーベル賞やりたいくらいのマックス・フリッシュ*1(Max Frisch)、知ってるだろう?(テーブルの上に用意された本の中にマックス・フリッシュの一冊が写る。題名は不明。*2その本についてメカスは少し話す。)これにはあらゆることが含まれている。芸術だ。

私が気落ちしてしまうのは、今、ここにないものしか扱わない芸術だ。現実の人生は動いている。それに、私は私だ。みんな個人だ。そしてみんな異なった理由、本質を持っている。でもそれは影響を受ける。たしかに人生は絶え間なく流れる。だから、映画だけが楽園の瞬間としての人生を祝福することができるんだ。私の映画はいつもすでに行為なんだ。私のポリシーは行為(act)なんだ。そう、美しいものをサポートすること。そして、人生に、流れに働きかけることなんだ。

われわれは、われわれに先行するものすべてに依存している。すべての死者、詩人、科学者が与えてくれるもの、それらすべてを裏切らないことがわれわれの義務なんだ。そして仕事を続けること。流れているだけではダメさ。(最後にポツリと言う。)魚じゃないんだから。

***

メカスのカメラはテーブルの上に置かれたまま報道関係者に向けられている。メカスの語りの熱意と報道関係者の姿勢には明らかに大きな落差が見られる。メカスにとってはその現場での撮影がすでに「行為」としての映画なのに、報道関係者のほとんどは、そのことには気づく気配はなく、メカスの話から知識としての「日記作家的映画」の秘密を聴き取ろうとしている。わずかに一人だけ、メカスの熱意に何かを感じとっている人がいる。メカスの目の前でカメラを構える若い娘だ。彼女は途中から写真を撮ることを忘れて、メカスの話に夢中になっている。メカスもそれに気づいたらしく、その娘に何か合図を送る。彼女が微笑む。「楽園の一瞬」がそこに映っている。

*1:マックス・フリッシュの著作邦訳には、『アテネに死す 新装版』(白水社、1991)、『わが名はガンテンバイン 鏡のなかの墜落』(三修社、1980)、『ぼくはシュティラーではない』(白水社、1954)、『ぼくではない』(新潮社 、昭和34年、1959年)がある。ウェブ上に日本国内のドイツ文学研究者の論文情報や断片的な情報の他には彼に関するまとまった日本語情報は見られない。

*2:第二次大戦後のヨーロッパの経験を生き生きと描写したと評される、「スケッチブック1946-1949」ではないかと思われるが、確証はない。オリジナルは、「Tagebuch 1946-1949」(Frankfurt: Suhrkamp 1950)。邦訳はない。英訳は「Sketchbook 1946-1949」(Harcourt Brace Jovanovich)。彼の公式サイトは「Max Frish - Archiv」http://www.mfa.ethz.ch/index.html