メカスの戦いに関する注

前エントリーのメカスの365日映画紹介は、かなり乱暴で一方的な解釈に基づいた(いつも?)要約だった。要約からこぼれた言葉が次々と頭に浮かんでくるような。要約とはそれでいいのだと思いはするが、それにしても要約的すぎるので、ちょっと補足しておく気持ちになった。

一回だけさーっと見て、聞いて、特に印象に残った言葉だけをピックアップして書いたのが前エントリーだった。メカスの話す、震え、軋み、吃った言葉、それは「英語」なのか?と言いたくなる、英語の衣をかぶったリトアニア語?とにかく気迫はびんびん伝わってくる言葉を、日本語が染み付いた耳で、吉増剛造さんじゃないが、「言語の皮膜」のような場所で耳を澄ましながら、概念というかイメージを、つたないやりかたで、つなごうとしている自分がいることに気づいていた。

人間性」、"humanity"という言葉をメカスは使っていた。人間性に根ざした、人間性を探究するような詩的映像の価値。それのために、彼はある意味ではたしかに「戦って」きたのだ。ハリウッドと同じ土俵では戦ってはこなかった。ハリウッドとは違う土俵での戦い、言い替えれば、新しい土俵を作り出す戦い、それは己の中のおそらくはハリウッド的なるものとの戦いを含んでいたと言えるかもしれない、そんな「戦い」をメカスは戦ってきたのは確かだ。しかしインタビュアーの質問のモードからは「ハリウッド対メカス」みたいな単純な図式にのっかった答えしか期待していないことが如実にかんじられる。だから、メカスは軽くいなすように、戦ってきたわけじゃないと答えるに留めたのに違いない。

そんなメカスの「戦い」の火種は、今やニューヨークではなく、パリに飛び火し燃え盛っているという。68年パリとは逆に。興味深い。メカスは日本、東京とは言わなかったのが、ちょっと残念だった。