シベリアカラマツLarix sibiricaの記録:検索の陥穽?

マーリオ・リゴーニ・ステルン著、志村啓子訳『野生の樹木園』(みすず書房)をゆっくり、ゆっくり、読んでいる。

野生の樹木園

野生の樹木園

先日、冒頭の「1996年版によせて」と「はじめに」のなかの言葉に少し触れた。今、「カラマツ」(15頁-21頁)を読み終えた。終りに近づいたとき、ステルンは、遠くシベリアに生育するシベリアカラマツの物語に想像力の皮膜を広げる。

ある旅人から聞いた話だが、シベリアカラマツLarix sibiricaの生育する遠いシベリアには、この木を<宇宙の木>と信じる先住民がいるという。この木に沿って、それぞれ金と銀の鳥に姿を変えながら、太陽と月が沈みゆくのだ、と。その北の地には<聖なる森>もあって、人びとはカラマツの枝にこよなく美しい毛皮を掛け、いかなる猟師もそこでは弓を置くとのことだった。(20頁-21頁)

とても美しい話だ。ただ、20頁に登場する「シベリアカラマツLarix sibirica」の文字からは、少なくとも私は明確なイメージを思い浮かべることができなかった。

『野生の樹木園』の表紙を飾るマルコ・アルマンの「カラマツ」(連作「野生の樹木園」1999年)の絵はヨーロッパカラマツLarix deciduaである。

そこで、目の前のインターネットにつながったパソコンで「シベリアカラマツ」をGoogleで検索して、Wikipediaに載っている写真をどこか不思議な気分でしみじみと眺めた。

いつも「同じようなこと」を頻繁に繰り返しているはずなのに、なぜか不思議なことをしたという感覚が残った。本のページの上を彷徨っていた意識が途切れなくウェブに移行した、そんな感覚。自分の頭の中を探しても見つからない記録をウェブに探しにいった。すると、わずか数秒でその記録に到達できた。本とウェブが自然に繋がった、そんな感覚。あるいは脳とウェブがシームレスに繋がった、そんな感覚。これは多くのネット・ユーザにとってはもう当たり前の感覚なんだろうな。

でも、こんなことをしていいのだろうか、こんなに手軽に知ったつもりになっていいのだろうか、と不図思った。Wikipediaの写真を見てしまったせいで、「シベリアカラマツ」の記憶が一挙に薄まってしまったような気もした。何か大切なプロセスを飛ばしてしまったような気がした。錯覚だろうか。分からない。