ネットで生まれる革命的信頼について

私の場合、最早インターネットは、ブロク周りと検索に集約されていることを断った上で、インターネットの思いも寄らぬ恩恵を日々感じていることを記しておきたい。地上世界だけでは一生ありえなかったであろう遠い人や情報との出会いとつながりのことを思うと、身震いする。

ネット上で初めて実現の見込みがうまれた動向として私が一番注目しているのは、人間的ロングテール現象である。『フューチャリスト宣言』のなかでも語られていたように、ここに来て人類史上初めて世界規模で個人が個人として相互にその存在や嗜好や思想を認め合うことのできるインフラ、環境、メディアが整備されつつあるのだ。これを「革命」と呼ばずして、何が革命だろうか。革命は思想だけでは成し遂げられない。それにはやはりインターネットという技術が必要だったのだ。もちろん、インターネットの可能性を引き出す技術も含めて。

そしてその革命は、いろんな波及効果を生む。私が一番注目しているのは、これも悔しいが『フューチャリスト宣言』のなかで梅田氏がさりげなく語っていたことだが、これまで地上世界の活動だけでは実現不可能に近かった「社会改革」の実現の可能性である。その萌芽はオープンソースの動向に見られるものでもあったが、どんな世界にでもみられる悪意の表出がインターネット上でも例外なく見られることは当然のこととして、驚くべきことは、ネット上では悪意は意外なほど集積せず、むしろ善意のほうが圧倒的に集積するという事実が明らかになったことである。

悪意に費やされるエネルギーの効率がネット上では地上世界よりも圧倒的に悪いのだろうと推測する。地上世界では、私の好きな哲学者アルフォンソ・リンギスが喝破したように、悪意は無限に伝播しうる。しかし、ネット上ではまったく異なる法則が支配しているために、そうはならない。これは本当に驚くべき事実だ。もちろん、相変わらず、地上の慣性をネット上に持ち込んでエネルギーの無駄遣いをしている輩は少なくないらしいが、その数はたかが知れているということだろう。リンギスはもう高齢だしネットには手を出さないかもしれないが、やってみれば、彼の「信頼」の思想は、ネット上で当たり前のように実践されていることを見出して感動するに違いない。

例えば、私は今まで3回にわたって、ベトナム出身でパリで亡くなった不遇の哲学者チャン・ドゥック・タオ(Tran Duc Thao)について書いた。

これはブログをやっていなければ、ありえなかった「表現」のひとつである。それらによって、ベトナムからの留学生との親交、mmpoloさんとのやりとり、そして本当にこれこそ僥倖と呼ぶべきkenjikienさんからのコメント、sumita-mさんからのコメントとトラックバックが生まれた。

さらに昨夜遅くに、6月28日のコメントでも1988年にサイゴンの病院でタオに面会したという貴重な体験を明かしてくださったkenjikienさんから、「約束」の驚くべき「まとめ」が届いた。私は自分の目を疑った。kenjikienさんは私を、「三上のブログ」を信頼してくださった。見ず知らずの私を。この信頼に対して、私は信頼を返す覚悟である。(kenjikienさん、ご容赦を。これだけは書かずにはいられませんでした。ブログのお陰ですから。)