思い出せない/忘れられない(Can't remember / Can't forget)

8月3日のエントリー「ブラジルのS/Z」で、枕頭の書の一冊として紹介した管啓次郎著『ホノルル、ブラジル』(インスクリプト)には細かな「仕掛け」がいくつも施されていて、楽しい。それらはすべて著者自身を含めた読者という他者に開かれた記憶=想起のトリガーのようなものだ。もちろん、本書全体がその塊、束のようなものだとみなすこともできる。そういう見方が好きだ。前回ちょっと取り上げた、非日本語タイトルの"honolulu, braS/Zil"もそうだった(こうして書き写していて、"honolulu"の"lu-lu"が「ハワイの歌と踊りの記憶」を留めていることに改めて気づく)。他に初めから気になっていた異例の引用がある。冒頭にはよくある格段の引用(それは本書にもある)ではなくて、本書の最終ページにある次のような短い引用である。

Can't remember
Can't forget
------Lynda Barry

リンダ・バリー(Lynda Barry, 1956-)はアメリカの漫画家兼作家。邦訳はない。ウェブ上に日本語情報も存在しないようだ。それはさておき、上記引用の「思い出せない/忘れられない」とでも訳すことのできるフレーズが、人間の記憶の有り様、もっと言えば人生の有り様を見事に照らし出していると感じた。喩えるなら、「思い出せない」ことと、「忘れられない」ことを両岸に、その間を流れる川のような人生。

「思い出せない」とは「忘れる」こととは違う。一つには、そもそも「忘れる」という言い方には、文字通り「忘れた」なら、忘れたことさえ忘れているはすで、忘れたとさえ意識することはないという矛盾が含まれているので、われわれが通常「忘れた」と言うときに意味していることは、正しくは「(はっきりとは)思い出せない」ということだと思う。他方、そのような「忘れる(た)」という言葉が矛盾なく使われるのはその否定形の「忘れられない」、「忘れない」である。人生は程度の差こそあれ、「忘れられない」ことがらから成り立っていると言えるだろう。そしてそれら「忘れられない」ことどもを様々な強度のグラデーションで「(はっきりとは)思い出せない」ことどもが取り囲んでいる。

記憶と記録の問題を考える際には、記憶や記録に関わる言語使用を丹念に見ていく必要もあると思った。その点では、「本」という歴史のある記録装置の記憶=想起の働きとそれを深く自覚した書き手や作り手によって出された本の「仕掛け」をよく観察することもきっと役に立つと。