3年前のカリフォルニア州運転免許取得の顛末を思い出した


(上がIDカード、下が運転免許証。遠目にはほとんど同じに見える。)

一昨日の免許更新の際、アメリカ滞在中にカリフォルニア州の運転免許をとったときの体験を断片的に思い出していた。しかし忘れていること、思い出せないことが多かった。私はアメリカ滞在中、2004年4月から2005年3月までの一年間に日本の知人たちに23回にわたって「カリフォルニア通信」と題したメールを配信していた。面白がってくれた人は多かったが、それは量的にも内容的にもメールの範疇を大幅に逸脱したかなり詳細な私の一年間の人生の記録だった。そのデータは現在三台のパソコンと二つの外付けハードディスクそれぞれの中に保存されている。幸か不幸か、そのような記録が存在するお陰で、私はなかなか思い出せないこと、そしてそれがなければ一生思い出せない、つまり文字通り忘れるであろうことを思い出すことができる。そうして、このブログにもこれまで「床屋体験」、「死の谷紀行」、「ノルウェー語レッスン」の一部を引用することができた。いうまでもなく、ブログに転載することによって、その記録はウェブ上に半永久的に遺る。

今からおよそ3年前の2004年9月3日に私はカリフォルニア州の運転免許を取得した。9月13日付けの「カリフォルニア通信16」というタイトルのメールの後半にその顛末が書かれている。もはや自分が書いたとは思えない文章であるが、読めば、たしかに自分の体験として細部までがまざまざと蘇るから不思議といえば不思議だ。読まなければ思い出さなかっただろうことが多い。その意味で忘れていたといえることだ。それもあって、そしてそれ以上に、内容的にもいくつかの観点から今後の自分にとってはもちろん、もしかしたら他人にとっても役に立つ情報が含まれているような気がしてきて、面白いと思ったので、量的にブログの常識を大きく逸脱してしまうが、思い切ってその一部をここに掲載する。長いので、元々のメールの文章にはなかった「小見出し」をつけた。

カリフォルニア州運転免許取得の顛末

再入国(2004年6月25日から7月27日まで、父親の死亡で一時帰国した)後の僕の最大の懸案事項は車の登録手続きと運転者免許取得でした。両方とも日本の陸運局に相当するこちらでは略してDMV(Department of Motor Vehicles) の管轄です。登録手続きには前所有者から渡された登録証(通称ピンク・スリップ)とスモッグ検査保証書が必要です。運転者免許の取得には、先ず筆記試験に合格してから(これには8月6日にパスしました)、運転試験の予約をします(それが混んでいたせいで9月3日でした)。運転試験には車を自分で運転して試験会場に持ち込むことになっています。その際その車の保険証を提示しなければなりません。

  • Pontiac Le Mans 1992 SE

実は今住んでいるアパートを家財道具一式引き継いだ際に、そこに自動車も含まれていました。自動車保険だけは以前報告したように日本にいる間に手続きは済ませ、こちらに来てすぐに半年分の保険料、約$380を支払いました。車種はPontiac Le Mans 1992 SE。名前だけ聞けば、よさそうなイメージが浮かぶかもしれません。赤のスポーツカータイプとも知らされていた僕は少し期待もしていましたが、実際には前住人がその処分を僕に預けたとしか思えないようなかなりガタのきた車でした。側面は両側ともへこみ、塗料がはげ、ブレーキは軋み音を立て、ハンドルを左に切ると車体前方が振動音を発し、パネル系統の照明が接触不良で時々消える、という状態でした。修理費にいくらかかるかわからない、これはうまく処分したほうがいいな、と何度も思いました。しかし運転の練習をしているうちに、と言ってもアパートの敷地内のドライブの往復ですが、だんだんその車に愛着が湧いてきました。それに、いくらバイクで日常生活に不便はないと言っても、やはり車があれば行動半径が格段に大きくなり、経験の幅も広がると判断した僕は免許を取るつもりでいました。ところが、一時帰国でその気勢がそがれた格好になり、再入国後は車生活が始まればお金もかかることがかなり気がかりにもなってしまい、どうしても必要な場合はレンタカーすればいいと思い、取りあえず登録だけ済ませて時機を見て車は手放そうという気持ちに強く傾いていたのでした。

8月4日の朝9時、僕は車の登録を早く済ませてしまおうと決意して、重たい体に活を入れて部屋を出ました。二日前と同じように、バス、電車と乗り継いで僕が住んでいるパロ・アルトから北へ、サンフランシスコ方面へ3つ目の町、レッドウッド・シティー(Redwood City)にあるDMVへ向かいました。駅を降りて、前の晩に何度も地図で確認した通りの名前を頼りにDMVを目指しました。20分くらいでその建物には着きました。最初に目に入った入り口から入ると、そこはかなり大きなスペースにコの字型にカウンターが設置され、その中には職員が、その外側には椅子が2列にずらりと並べられ、大勢の人たちでごったがえしていました。僕はどこのだれに尋ねていいのか見当もつかないままうろうろした挙げ句、一番端っこの、17番とあるカウンターの向こう側でうつむいて書類を調べていたアジア系の年配の女性職員に声をかけ事情を説明しました。面倒くさそうに顔をあげた彼女は、先ず通りの向こう側の建物に行きなさいと冷淡な口調で言いました。確かにそう聴こえたはずだったのですが、彼女が指差した建物に行ってみると、そこはDMVとはまったく関係のない建物でした。変だな、俺の説明が間違っていたのかな、と思いながら、僕はさきほどの建物に戻りました。今度は中には入らず、外のベンチで何か(後でそれは運転試験の順番待ちだと分かりました)を待っていた若い男(だと最初は感じた人)に事情を説明すると、(その人は女性だということが声で分かったのですが)この建物の反対側の入り口から入って、番号札をもらってから、中で呼ばれるまで待つんだよ、ととても親切に説明してくれました。そうだったのか、俺は裏口から入ってしまったのか。でもさっきのオバさんは何故そう説明してくれなかったのだろう?それは今現在も疑問のままです。

  • スモッグ・チェック有効期限切れ!

正面入り口前には20人以上の行列ができていました。白人、黒人、ヒスパニック、アジアンと色とりどりの人たちです。黒人、ヒスパニック、が多いなという印象でした。行列の先頭は入り口を入ってすぐのところにある小さなカウンター前でした。中に中国系のオジさんがいて、一人一人の事情を聞いて、二言三言説明して小さな紙切れを手渡しています。僕の順番になり、事情を説明すると、B062と印刷された紙を渡され、5番カウンターです、と言われました。僕は5番カウンター前に2列に並んでいるパイプ椅子の空いている席に着きました。最近リュックに入れて持ち歩くようにしているペットボトルのミネラル・ウォーターで乾いた喉を潤しました。カウンターで働いている窓口係は黒人とヒスパニック、中国系の人が多く、中でデスクワークしている地位が上らしい職員には白人が多い。天井から吊り下がっているモニターに現在呼び出し中の番号が表示され、新しく呼びだれるとアナウンスがかなり大きな音声で部屋じゅうに響き渡ります。AからHまでのアルファベットは手続き内容の分類を表し、その後に続く数字が順番です。僕が待ち合い席に着いたときはBはまだ40番台でした。それでも1時間くらいで僕の順番が回ってきました。担当者は若いヒスパニック系の女性でしたが、嫌々仕事をこなしているのが露骨に態度に出ている人でした。僕が事情を説明し、持ってきた書類を見せると、投げやりな態度でそれを受け取り、端末に情報を入力し始めました。すると途中で彼女の動きが止まり、僕の方を見て、これは期限がすぎているから、手続きは進められないと言いました。なんとドジなことに、スモッグチェックの有効期限は90日間で、すでに6月半ばでその期限は過ぎていました。ガーン!どうすればいいですか?と尋ねた僕に彼女はスモッグ・センターに行って検査してもらって、新しい保証書をもってまた来ることと答えました。僕は三重のショックを受けました。先ずはスモッグ・センターの正体が不明!でも調べりゃ分かるだろう。しかし、そこまであの車を運転して持ち込まなければいけない、しかも余分の出費!!、そしてまたここまで来なければいけない!!!一瞬絶句した僕は、分かりました。また来ますと答えて、半ば呆然としてDMVを後にしたのでした。

  • スモッグ・チェックはどこで?

その日の午後から研究所に行ったとき、駐輪場で偶然出会ったネットワーク管理者のE(僕は内心密かに閻魔様と呼んでいます)女史に、挨拶がてら、スモッグ・チェックの件を話しました。ガソリンスタンドでやってもらえるよね、と言った僕に、ノー、ノー、それはDMVから認可を受けてスモッグ検査を専門にやってるところに行かなくてはいけない、私についてきて、調べてあげると言って、僕を先導して、研究所内のある部屋の錠を開け、彼女は研究所内の全ての部屋の鍵の束をいつも持ち歩いているようでした、そこのパソコンの電源を入れて、ブラウザーを立ち上げ、グーグルで近郊のスモッグ・センターの名前と場所を調べてくれたのでした。彼女はアイルランド系でキングズ・イングリッシュを話す、才媛です。休日には詩と川下りを愛する極めて有能なエンジニアです。彼女の部屋は、何度かお邪魔して、詩の話題で盛り上がったりしたのですが、これでもか、というくらい見事に散らかっています。大量の書籍、雑誌、新聞、書類が部屋の外にまではみ出すくらいに散らかっている。その中で2台のユニックス・マシーンに向かっている。そのいつも在室中は開け放たれている(こちらでは皆さんそうなんですが)扉の向こうに彼女の銀色のおかっぱカットの髪が見えます。自宅に戻った僕は彼女が調べてくれたスモッグ・センターを再度確認しました。DMVのあるレッドウッドシティーの一つ手前の町、アサートン(Atherton)のスモッグ・センターに行く事に決めました。そこで検査して保証書を発行してもらって、それを持ってそのままDMVに行くことにしよう、そう決心したのでした。しかし、あの車でアパートの敷地から外にでたことはありませんでした。かなり不安でした。

(ちなみに、後で知ったのですが、アサートンという町はベイアリアでは高級住宅街として知られ、日本で言えば田園調布みたいなところね、と説明してくれた人がいました。次回報告するかもしれない、マーク君主催のお盆パーティーで知り合ったエリザベスという初老の女性はそこの豪邸に一人で住んでいるのでした。そのパーティーに出席していたある人の話では、エリザベスはあのマッカサーの娘で、2歳から日本で暮らし、映画にも出演したそうです。岡田茉莉子と共演したが、ずいぶんいじめられて嫌な思いをしたらしい、との事でした。え、まさか小津安二郎の映画かな、時期的には吉田喜重の映画ではないよな。その話を聞いた時にはすでにエリザベスは帰った後でしたが、帰り際に彼女は何故か僕に関心を示してくれて、今度パーティーを開くから来てと言って電話番号を教えてくれました。)

  • アサートン(Atherton)のスモッグ・センターへ

翌日僕は意を決して「俺のフェラーリ」と名付けたポンティアックのエンジンをかけました。 エンジン音は快調。しかし、アパートの駐車場を出るにはハンドルを左にいっぱい切らなくてはいけません。車体左前方がカタカタと振動する。敷地内のドライブは速度制限のために数十メートル間隔にバンプ(こぶ)が設けられいて、その前で軽くブレーキするたびに、キーと軋む。その二つを除けば、本当は除けない問題なんですが、僕のフェラーリは予想以上によく走り、目的のアサートン・スモッグ・センターに無事到着しました。キーという音を立てて。僕を迎えてくれたのはいかにもアメリカ白人といった感じの陽気な長身のオッちゃんでした。いらっしゃいませ、どうぞ、どうぞ、といった雰囲気で、過剰に親切な態度でした。スモッグ・チェック・オンリーと頼むと、お易い御用です、車はそのまま、どうぞ、中にお入り下さい、と言って、中を指差しました。中といっても小さなカウンターがあるだけのオフィスです。そこで料金約60ドルを先払いしました。

スモッグ・センターは見た目はガス・スタンドに似ていますが、確かに看板はスモッグ・センターでした。ガソリンはありません。しかしなぜか洗車サービスをやっていました。しかもそこでは大勢のベトナム人の老若男女が汗をかきかき、疲れた表情で働いていました。明らかにパートタイムでした。ベトナム人だと思ったのは、その中の一人の若い女性がアジア系でしかもあのベトナムならではの日よけ帽を被っていたからです。また僕がオフィスの中から出て外の椅子に腰掛けて待っていると、そこはちょうど洗車している車の正面だったせいもあって、一台のホンダ車の洗車を終えたオッちゃんが僕に話しかけてきて、どこから来た?と聞くので、日本からと答えると、俺はベトナムから来たと言いました。何年になるのと僕が尋ねると、12年だと答えました。長いね、と僕が応じると、イエスと言って、複雑な表情を浮かべました。これからDMVへ行かなきゃならないんだと僕が言うと、場所は分かるか?この道をあっちに行くとミドルフィールド・アベニューに出るから、右折して、それから……、と親切に教えてくれました。

  • スモッグ・チェック失格で再検査のハメに…

肝心のスモッグ・チェックが終わり、白人のオッちゃんが表情を曇らせてやって来ました。嫌な予感。的中でした。残念ですが、ひとつだけ失格項目があります。修理してからもう一度来てください。え、そんな!そのやりとりを傍で見ていた白人のオバさんは、彼女もスモッグ・チェックに来ていたのでしたが、同情の言葉を僕にかけてくれました。オッちゃんは車の修理屋のリストを印刷した紙をくれました。どこがいいの?どこか推薦して、と頼むと、私はよく知らないんですと言われました。仕方なく、また調べてから出直すしかないなと思いながら、僕は一応念のため再検査には料金はかからないよねと確認すると、もちろんです、と返事がありました。なんとなく腑に落ちなかった僕は車に乗ってからも、どうしようかとしばらく考えこんでいました。するとスモッグ・チェックを実際にやっていたメカニックらしいヒスパニック系のオッちゃんが、彼は白人のオッちゃんと共同経営者のようでしたが、近づいて来て、何か問題があったか?と聞いてきました。実は一つひっかかって、今から修理に行かなきゃならないと答えると、僕が眺めていた検査表を手に取って見てから、そんなはずはない、これは何かの間違いだ、もう一度検査する、と言いました。本当?もちろん。機械のミスにちがいないと彼は付け足しました。そんな訳で再び待つ事になりましたが、その再検査の結果はすべて合格、無事保証書を手にすることができました。本来は先払いした検査料プラス保証書の発行料が7ドルくらいかかるのですが、それはこちらのミスがあったのでサービスしますと言われました。

  • DMVで車の登録手続き

カタカタ、キーと気になる音を発しながら、僕はすぐにDMVへ向かいました。建物のそばまでは問題なく行けましたが、駐車場の入り口がすぐに見つけられず、なんと警察署のある一角を一回りするはめに陥りました。未登録の車に無免許運転です。何台ものパトカーとすれ違います。国際免許とパスポートを持っているし、事情を説明すれば、なんの問題もないとは分かっていても、なぜか緊張しまくったのでした。

  • 試しに筆記試験をうけた

車の登録を無事終えた僕は、ここは試しに筆記試験をうけてみようかと思いました。成算は五分五分でした。二晩かけて電話帳の後ろに掲載されている200問からなる練習問題をかなり集中して勉強していましたが、知識の穴がまだありました。しかし物は試しと思って僕は筆記試験を申し込みました。再び正面入り口の行列に並び、事情を説明すると申請書と番号札を渡されました。僕は空いている席に座り申請書に個人情報を書き込みました。身長をインチとフィートで、体重をポンドで書き込む欄ではしばし計算に手間取りました。手続きの際、IDカードはどうするかと黒人の若い女性の係に尋ねられました。運転者免許証がIDカードの役目も果たすという知識しかなかった僕は、IDカードですか?と聞き返しましたが、そうです、という返事しか返って来ず、よく分からないまま、別料金がかかることだけは分かったのでIDカードは必要ないと答えました。受験料26ドルを支払うと、視力検査をしますと言われました。いつも眼鏡はかけてるの?イエス。じゃ、眼鏡をかけたままで、左目を手で隠してあれを見てと彼女は言いました。カウンターから5メートルくらい中に入ったあたりの天井からボードがぶら下がっています。そこにアルファベットが縦に4列ランダムに上から下にだんだん小さくなるように並んでいました。左の列を上から順番に読んで。オーケー。じゃ隣の列を。オーケー。右目を隠して。右の列を上から。オーケー。隣の列。オーケー。合格よ。なんと、いい加減な!好きだな、このいい加減さ。

  • 不合格

その後、顔写真をポラロイドカメラで撮られ、右手人差し指の指紋を取られました。空港の入国審査では網膜の映像まで取られてしまったことを思い出しました。改めて日本人三上勝生の個人情報は生体情報までアメリカ合衆国政府に完全に握られている、テロリストにはなれないと思いました。試験問題は一般問題が30問に、標識問題10問の合計40問で、全て三択問題。時間無制限。部屋の隅っこの一角に、衝立てのついた高さ120センチくらいの細長いテーブルがこの字型に配置され、そこで立ったまま解答します。カンニングしようと思えばいくらでもできる、いい加減な筆記試験状況でした。いいな、このいい加減さ。僕の他には北欧系のいかにも大学生といった感じの男の子が一人だけ。初回は誤答が6問以内であれば、合格。二回目以降は誤答が3問以内であれば合格という基準でした。15分くらいで一通り解答を終えました。一度見直しましたが、ちょうど6問が自信なしでした。マイ・フェラーリによる初めての長距離の運転で疲れていたせいか頭がぼーっとして、それ以上何度見直しても駄目でした。先ほどのカウンターの女性係のもとへ解答用紙を持って行くと、その場ですぐに採点してくれました。彼女はかすかに同情の表情を浮かべて、小さな声で、不合格(You didn't pass.)と言いました。でも標識問題は全問正解だったから、次回は免除。明日また来て。8問不正解でした。しかもそのうちの半分は自信のあった解答でした。半ば覚悟していた僕は、これで筆記試験の実態がつかめたし、惜しかったじゃない、今晩少し勉強して、明日また受験しよう、と前向きの気持ちでDMVを後にしたのでした。

  • 筆記試験合格

翌8月6日、2度目の筆記試験受験のために、再び僕はDMVへ運転の練習も兼ねて車で向かいました。その時の気持ちはとにかく免許を取ってしまおうという方向に完全に傾いていました。2回目の受験結果は2問不正解で合格でした。その場で一時的運転者許可証(日本の仮免に相当する)が発行され、それから運転試験の予約をすることになります。早くて9月2日だが、どうする?とその日の係の白人の年配の男性に尋ねられました。その時予約してしまえばよかったのですが、運転試験となると車を用意しなければならない、あのマイ・フェラーリでは無理だよな、と思った僕は、後で自分で予約します、と答えました。彼はそれじゃ、ここに電話するように、と言って運転試験予約専用の連絡先の電話番号を教えてくれたのでした。

  • IDカードの正体

その後僕はちょっと気になっていたIDカードの正体について、何人かに尋ねました。それで分かったことは、普通僕みたいな非移民の滞在者はパスポートが身分証になるからIDカードは必要ないが、多くの移民の人たちはIDカードが必要だということでした。IDカードには社会保障番号も記載されますから、それさえ持ち歩けば何かあった場合に便利なわけです。そして非移民滞在者の場合は正式の運転者免許証があれば、パスポートも持ち歩かずに済むが、免許証は発行され届くまでに随分と時間がかかることが多いらしく、その時までの「つなぎ」としてIDカードを持ち歩くことに利点はあるということでした。中には半年以上、帰国直前になってやっと免許証が届いたという滞在者の例があったそうです。僕は、これも経験だと思って、IDカードを申請してみることにしました。

  • IDカード申請

8月9日、僕は運転試験の練習も兼ねて、三たび車でレッドウッド・シティーDMVへ向かいました。筆記試験の時と同じ申請書を再び記入することになりました。料金は24ドル。また顔写真と指紋を取られました。カードは数週間で届くと言われました。そして同時に運転試験の予約もしました。持ち込む車については、いくつかの選択肢が頭にありました。運転試験の予約日時は9月3日、午後1時40分に決まりました。

  • 日本人

こちらに来ている日本人の方々は日本人向けの自動車教習所に通うか、すでに運転歴のある知り合いに同乗してもらい運転試験コースを走り込むかして、準備万端整えてから運転試験に臨んでいるそうでした。例えば、僕がある人から薦められたジョイ・ドライビング・スクールでは試験当日に試験コースで練習して、車も貸してくれるそうでした。しかし教習所は金がかかるし、運転練習につき合ってくれそうな暇な人は僕の周りにはいませんでした。僕はまだ時間的余裕があるから、おんぼろポンティアックで走り込み、そうだ、ブレーキだけでも修理して、それから試験に臨もうと思っていました。あるいはミシェルかだれか研究所のスタッフにその日半日だけ車を借りられるかもしれないし、などと甘いことを考えたりもしていました。

しかしそのうち8月半ばくらいからにわかに僕の周囲が騒がしくなり始め、ぼやぼやしているうちに、あっと言う間に2週間以上が過ぎてしまいました。しかもその間にある日本人から、僕が受験しているレッドウッド・シティーDMVは、日本人がよく落とされるので、最近は日本人は皆サンタ・クララかどこかの、簡単に通してくれるDMVで受験しているという話を聞いたりしました。運転さえ問題なければ、日本人だから特別厳しくされるなんてことはないだろう、俺には関係ない話だ、とその時は思いましたが、やっぱりちょっとは気になりました。こちらでは、日本人の方々はとにかく、日本人同士でやたら「情報交換」をしているようでした。そういう世界から身を引いて、一匹オオカミ的に生活している僕は、地元の人たちが選択するだろうことを当たり前のように選択していましたから、一番近いレッドウッド・シティーDMVで満足でした。落とされたらそれには理由があり、その理由がフェアでなければ、抗議すればいい、そう思っていました。実行できるかどうかは別にして。

  • 運転試験に持ち込む車をどうするか

それにしても、気がついたら、9月1日、運転試験2日前でした。ブレーキの修理もまだでした。これは、レンタカーという選択肢をとるべきか、マイ・フェラーリで堂々と臨むべきか、僕は当日までくよくよ考えました。実は試験前日、アパートから歩いて行ける所にあるレンタカー屋、エンタープライズを覗きました。受付嬢は現在一台ミニ・バンがあるだけです、と言って見せてくれましたが、名前はミニだけど、8人乗りの大きなバンでした。小型車をイメージしていた僕は、明日の運転試験用であることを説明して、小さな車が必要なんだけど、と言いました。なるほど、と言って彼女は電話で他の支店に小型車はないか尋ねてくれましたが、生憎すべて出払っているそうでした。もし今晩中に小型車が戻ることがあれば、電話しますけど、どうしますか、と聞いてくれた彼女に、僕は期待薄だよなと思いながらも、イエス、プリーズと言って、名前と電話番号を彼女に教えてから、肩を落として帰宅したのでした。案の定その夜電話はありませんでした。

  • 運転試験の顛末

運転試験は3回まで受験できます。3回目も失格だとリセットで、再び受験料を払い、筆記試験からやり直しになります。僕が一番危惧していたのは、運転そのものではなく、車そのものでした。保険にも入っていて、スモッグ・チェックも通っているとは言え、ブレーキ修理が必要な車を持ち込み、他人(試験官)を同乗させ、危険に晒すことになりかねないという点が、運転技能以前に問題にされるかもしれないと思っていたのでした。ですから、他力本願でしたが、もし車の整備不良を理由に失格になったら、ちゃんと修理してから出直そうと思っていました。しかしそれは杞憂でした。試験官は僕のフェラーリを見てちょっと笑ったように見えましたが、ランプ系統が正常に動作するかどうかを中心にプレ・テストをしただけで、早速助手席に乗り込んで来て、試験の概略を超早口で説明しました。聞き取れない箇所はありましたが、だいたい見当はついたので、イエスと応答しておきました。その後は彼の指示に従って、エンジンを掛けて、直進、左折、右折、直進、車線変更、、、とレッドウッド・シティーの中心街を一回りしてから、閑静な住宅街に入り、左折、右折、右寄せして一時停止後直進バック等をして、30分くらいでDMVに戻って来ました。

ところが、実はプレ・テストの時、試験官が(試験官と言っても日本の試験官とはかけ離れた風情で、ジーンズによれよれの長袖のチェックのシャツを着たメカニックっぽい感じの髭を生やした白人の年配のオジさんでしたが)僕にとっては超早口で指示する操作が聞き取れないところが沢山あって、とんちんかんな操作をしてしまい、ノー、ノーと大声で叫ばれたときには、これは落ちたな、と思ったのでした。しかし、僕はめげずに、これは別に英語聞き取りテストじゃないんだから、と思い直して、ちゃんと聞き取れない時は必ず、パードゥン?としつこく聞き返すようにしました。すると彼は少しゆっくりと言い直してくれたのでした。運転試験中は私語は一切なしで、彼の短い指示の声と僕のイエスか、パードゥン?の声が聞こえるだけでした。彼の指示で運転席側も助手席側も全開にした窓からは時折熱風が吹き来んで来ました。暑い日でした。彼はリラックスした姿勢で手元のチェックリストの紙に時々何かを書き込んでいました。DMVの駐車場に戻ってきて、指定された場所に駐車して、指示された通りパーキング・ブレーキをかけてからエンジンを切りました。しばしの沈黙の後、彼はお前の運転は、ブレーキの掛け方はスムースでよろしいが、不必要な停止があった、なんとかかんとか……。てっきり落ちたと思っていた僕は、イエス。イエス。と相づちを打ちながらも、上の空でした。ところが、一通り僕の運転について評価の言葉を語った彼は、合格だ(You passed.)と言いました。えっ?まさか。本当?イエス

マイナス11でした。受験前に聞いていたところでは100点満点からの減点方式で、70点以上なら合格ということでした。マイナス11ということは89点、やった、楽勝だったのかと僕は思いましたが、渡されたチェックリストにはマイナス18までが合格と書いてありましたから、82点以上が合格ということになります。辛勝に近かったのか、良かった、と僕は思いなおしました。付いて来いという彼の言葉に従って、DMVのオフィスに入り、ここで待ってなさい、と言われた場所で待っていると、カウンターの中に入って端末を操作していた彼は僕を手招きしました。カウンターに近づくと、彼は一枚の紙を僕に手渡してここにサインしなさい、と言いました。それは期限付き運転者免許証でした。僕はサインしました。数週間で正式のライセンスは届くよ、と彼は言いました。なんと、イージーな。シンプルで良い加減だなあ。ありがとうございます、と僕は礼を言ってその場を後にしました。やったー。これでカリフォルニア州の運転者許可証を手に入れる事ができた。堂々と運転できるぞ、そう思って心の中で何度もガッツポーズを取ったというわけでした。もちろん、ブレーキを修理してからですが。