作品は人生の記録の切り売りに過ぎない

『坂のある非風景』のfreezinngさんが、大変興味深い応答をしてくれた。
作品の統一性を語るものは何か

(議論はさておき、取り急ぎ、直観的な本音の部分だけを少し書いておく。)

私の基本的な認識のひとつは、どんな表現も人生の記録の一部にすぎないということである。「作品」という言葉を聞くたびにそれを発する人の認識の抽象性を疑い、気持ち悪くなる。それって、切り売りでしょう?自力か他力かは別問題として。「作品」という言葉が少なくとも私にとって意味をなすのは人生そのもの、人生全体が何らかの形でまとめられたときである。記念碑とか墓とか。それ以前の「作品」には自惚れ以外の意味はないと感じる。

だから、具体的な「本」を問題にする。それは書かれたものの記念碑、墓みたいなものだと思うからだ。

ペソアの複数の人格とか異名にあまり興味はない。それは私にとっては常態にすぎないから。むしろ、ペソアリスボンという街を、カフカプラハの街を、ジョイスがダブリンの街を、そしてフーコーはパリの街をどれだけ深く歩いたのかに興味がある。好きとは言えない札幌の南の端の町内を毎朝どのように歩けばいいのか苦しみに似た思考を反復している私には。

freezinngさんには是非今現在生きておられる「坂のある風景」を報告してもらいたい。ペソアに抗して。