作品とは何か

私はやっぱり変なのだろうか。本とか絵とか写真とか楽曲という形をとった作品としてのまとまりに抵抗を覚え続けてきた。美術館や博物館やコンサートホールやギャラリーというスペースにも息苦しさを覚えずに入ったことはなかった。もちろんテンポラリー・スペースなど数少ない例外はあったが。まだ学校の教室やグラウンドの方が好きだった。嫌なことも少なくなかったが、隙間があった。自由の余地があった。

かつて自分では自然だと感じていたが、その人にとってはとんでもない非常識なことをしてしまった経験がある。その人は画家だった。個展に招待されて、主要作品として展示されていた三枚組の大きな絵を見た感想を求められて、本来の順番を入れ替えたほうがいい、その方が好きだと言ったのだ。それはその人が抱いていた「作品」としての秩序を破壊する行為だった。彼女は一瞬ぎょっとして、話題を変えた。

ことほど左様に、私はいつでもそうやって本来の作品の秩序を壊して、その細部を私の中に吸収して組み立て直すということをしているらしい。そのまま受け入れることができないのだ。作品のまとまりはそれを作った人の人生の記録の一部であって、私の人生の一部として取り込む、消化するには、タンパク質をアミノ酸に分解するごとく、あるレベルにまで解体しなければならないのだといわんばかりに。

それが正しいことなのかどうか今もって分からない。翻って、私自身にとっては「作品」は何かと自問したときには、そういう概念が自分のなかの「辞書」には存在しないことに気づく。断片的な記録しかない。いやいやまとめたものは少なくないが、それとて、ちょっと大きな記録にすぎない、と本当にそう思っている。

だから、映画でいえば、ジョナス・メカスに惹かれるのかもしれない。彼は「作品」に抵抗し続けてきた映像作家だと感じるからだ。断片的な小文字の真実のようなものに固執し続けてきた稀有な人。決して「高尚」にならない人。思わぬ場所に出てしまった。

不図、作品というまとまりは、人間にとってひとつの記憶の工夫、記憶術なのかもしれないと思った。そうだとしたら、それはあまりよくない記憶術だと私のなかの誰かが囁いているのかもしれない。