晩秋の日の朝、冬の光を感じる

いつになく慌ただしい一週間が過ぎた。一週間前が遠い昔のように感じられる。思いがけず、ある人と老いと病と生活の底に立ち、ともに歩き、話し、この世の仕組みの色んな境界線を行ったり来たりした。そんな体験の生々しい記憶を引きずったまま、これから己の人生を切り拓かんとする若い学生たちと接した。仕事と夢の決定的な違い、そして幸福とは何か。自立と甘え。金と自由。明るい展望を抱き難い今の社会で、それでも健気に彼らは何かを探して懸命に生きている。生きている、そのことの内に未来の、可能性のすべては懐胎する、胚胎する。それに気づき、その具体化の方法を身につけ、己を鍛えていく、本当の学びの道を一歩ずつ大切に歩むこと。

(今からでも、何歳になっても、それを始めなければ、自分のことはさておき、少なくてもあなたが大切だと思っている人を幸せにはできない。)


タンポポ公園の前に立って、風に揺れるイチョウの樹、エゾノコリンゴの樹を見上げた。寒い。木漏れ日は冬の光だった。藻岩山は晴々として見えた。29秒。

ホソバウンラン(細葉海蘭, toadflax, Linaria vulgaris)がまだ頑張って咲いていた。

聖徳太子に縁のあるヌルデ(白膠木, Rhus javanica Linn)がたくさんの実をつけていた。

トウモロコシ畑には白い薬(石灰?)が一面に撒かれていた。

ズームすると、「死の谷」Death Valley)の光景が蘇った。Emmausさんが紹介していた(「存在と描写と表現=脱複写」)フランスの写真家ジャンルー・シーフ(Jeanloup Sieff)が1970年代に「死の谷」の佳い写真を撮っていた。