昨日の言語哲学入門の講義はめちゃくちゃハードな内容のはずだった。私は独り相撲になりかねないリスクを覚悟して講義に臨んだ。ところが、先週のデレク・ジャーマン(Derek Jarman, 1942-1994)監督の映画『ヴィトゲンシュタイン』(Wittgenstein, 1992)についての補足的説明から入り、ついでに遺作『ブルー』(Blue, 1993)のエピソードやジャーマンの人生についても語り、それからヴィトゲンシュタインをめぐる人間ドラマをやや強調して語ったおかげもあってか、フレーゲ(Gottlob Frege, 1848-1925)の命題関数の発想、ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970)のパラドクスと階型理論(Type theory)、そしてウィトゲンシュタインの「名の解明」に至る理論闘争のプロセスを、200人を超える学生たちは、驚くほどよく理解してくれた。
講義終了後に思い思いに書いてもらう「思索記録」には、彼らの言葉への深い関心が読み取れたし、なにより、「言葉に関数の考えを持ち込んだフレーゲって人は凄い!」という感想が多かったのには驚かされた。ウィトゲンシュタインはもちろん、ラッセルだって、ましてフレーゲなど皆初めて聞く名前だし、「命題関数」とか「述語」とかの専門用語は、春学期の論理学入門をとっていない大半の学生たちにとっては呪文のような言葉にちがいないはずだった。しかし、例えば、「犬」という概念を「xは犬である」という関数として捉えるという発想を、皆面白がって聴いてくれた。しかも、そのような「関数」そのものを世界に存在する対象のようにみなすか、みなさないかという分岐点が、ウィトゲンシュタインが立ち止まって闘った理論的前線のひとつだったことを「ウィトゲンシュタインって天才!」と感激して聴いてくれた。みんな「言語論的転回」(Linguistic turn)というキャッチフレーズも覚えたようだった。