愛は不在そのものである

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昨日のエントリー「生命維持装置としての詩」の蛇足。

昨日もちょっと触れた、ジョナス・メカスがおそらく「彼自身のための歌」でもあると感じているはずのゲンナジイ・アイギの「私自身のための歌(SONG FOR MYSELF)」はこう始まる。

secret song: "I want for nothing"
秘密の歌:「私には無が欠けている」

「無(nothing)」とは何か?

11月25日に翻訳を試みたときにはまだ腑に落ちないところがあったが、ようやく見えてきた。

まず、何ものでもないものが無なのだから、「無とは何か」という正面からの問いに対してまともには答えられないものが無である。

無。

ここで、「補助線」が見つかった。メカスは「芸術はあえて言えば愛の形態だ」と69年11月の日記で書いて、こう続けた。

愛とは愛以外のすべてのもの------憎悪・羨望・怒り・嫉妬・物欲・エゴ------の不在である。愛は不在。愛は無------しいて言えば------

(念のため、「愛の不在」ではありません。「愛は不在そのものである」、あるいは「愛は無そのものである」です。ここでいう「不在」とか「無」としての「愛」とは、人間が持ちうる最も大きな「器」みたいなものだと言えるかもしれません。)

この言葉をかつての極貧かつ地獄さながらのメカスの生活を間近で見てきた飯村昭子さんは誰よりも実感をもって深く受けとめて、こう書いた*2

失うものを持たぬ強さと優しさだ、とやはり私は思う。彼が自分の人生をささげて築いたものも彼のものではない。ジョナス・メカスはエンジェルのように軽々としている。

メカスはアイギの「無」に「愛」を重ねてみているのだと思う。

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ちなみに、アイギという詩人は、たなかあきみつ氏によれば、コロンをはじめとする各種記号を語と同じ強度でふんだんに使ったり、言葉の「関節」(シンタクス)を脱臼させたり、「隔字体」などを積極的に導入した*3。今、最初から気にかかっていた"Field - Russia"という英訳詩集のタイトルでも、「土地」と「ロシア」を繋ぐハイフンの両側にはスペース(隔たり)があることに、ハッと気づいた。重たい歴史、意味を背負ったロシアから、何ものでもない、「無」としての土地がかすかに繋がりつつも、離れかけている、ということか......。とにかく、「ロシアの土地」などと訳してはいけないタイトルだと今さらながら痛感した。以前は違和感を抱きつつも、「ロシアという土地」と訳してしまったのだった。

*1:Jonas Mekas par Jérôme Sans, 1992

*2:飯村昭子訳『メカスの映画日記------ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959〜1972』(フィルムアート社、1974年)、379頁

*3:『アイギ詩集』(たなかあきみつ訳、書肆山田、1997年)、203ページ