記憶の彼方へ001:私の知らない祖父母

三年前に父が亡くなったとき、母と祖父母はすでに亡くなっていたので、次は自分の番だと嫌でも思い知らされた。それまで背を向けていた死を色んな意味で直視せざるをなくなって、ちょっと戸惑った。父が住んでいた家を処分しなければならなくなり、祖父母の代から捨てずにとってあった多くの家財道具や身の回り品などを一人で二週間かけて整理していたとき、手を休めて見入ったものに、何冊ものカビ臭い古いアルバムがあった。中の写真も色褪せ、傷んでいるものが多かった。ちょっと考えてからあることを決心した。デジタル・アーカイブ化するつもりで、すべての写真を台紙から剥がして空き箱に納めたのだった。ところが、三年以上たった現在も、その七箱は書斎の本棚の上に積まれたままだ。デジタル化計画は全く進んでいない。それでも、ときどき箱をおろして蓋を開ける。まだちょっとかび臭さが残る写真たちを眺める。

そんな写真の中にはもう確かめる術のない私の知らない人たちがたくさん写っている。そして当然のことながら、私の知らない祖父母や父母の姿もある。


大正14年、22歳の祖父。青森の農家に生まれ育ち、函館、松前樺太、室蘭と移動した人だった。社交的な人だった。


腰掛けているのが祖母。隣に立つのは「若松」という名字の方。祖母の友人だったのだろうか。撮影された時は不明だが、おそらく大正末、二十歳前後の頃だろう。秋田の商家に生まれ育ち、函館か松前で祖父と出会い結婚し、祖父とともに移動した。毎朝朝刊を隅から隅まで読む人だった。

これらは私の記憶のなかには存在しない祖父母のイメージである。最初見たときには、誰だか分からなかった。写真の裏に残された万年筆の文字がなければ、一生分からなかっただろう。当時の彼らは将来私のような孫を持つことなど想像だにしなかったであろう。

最近、私は少なくとも祖父母の代から三代にわたって「故郷」を追われ続けてきた一種の難民であるという奇妙な観念にとりつかれている。私は室蘭で生まれ育った。東北から樺太にいたる祖父母の辿った道についてはほとんど何も知らない。