動く自分を動的に記述する文体


知恵蔵裁判全記録―1995-1999
作者: 鈴木一誌, 知恵蔵裁判を読む会
出版社/メーカー: 太田出版
発売日: 2001/01
asin:487233566X

鈴木一誌著『ページと力』の「6 法とデザイン」はすでに旧聞に属する「知恵蔵裁判」(1995年3月提訴、1999年10月控訴棄却)をめぐる五つの文章から成る。その導入として引かれた『知恵蔵裁判全記録』(鈴木一誌・知恵蔵裁判を読む会編、太田出版、2001年)のカバーに記載された紹介文によれば、そもそも「知恵蔵裁判」とはこんな裁判であった。

「知恵蔵裁判」は年度版現代用語事典『知恵蔵』の本文レイアウト・フォーマットの流用に対して、デザイナー鈴木一誌朝日新聞を相手どって起こした、日本で初めてのフォーマット・デザインの権利をめぐる裁判である。レイアウト・フォーマットとは、DTPにおいて編集・デザイン・組版のしごとの共通の拠り所となる、電子出版時代の組版仕様書である。

そして東京高等裁判所における最終審は原告鈴木氏による控訴の棄却という結果に終わった。棄却理由の一文はこうである。

それ[レイアウト・フォーマット]が知恵蔵の編集過程を離れて独自の表現をもたらすものと認めるべき特段の事情のない限り、それ自体に独立して著作物性を認めることはできない。

鈴木氏は敗訴した。しかし鈴木氏は一体誰に、何に負けたのかはこれだけでは全く明らかではない。単純に朝日新聞に負けたという認識を振り払って、鈴木氏はむしろ裁判所が遵守する法という名のフォーマットに負けたという認識にまで突き進む。デザインのフォーマットを創造し続ける主体が、社会をデザインする法のフォーマットに属する主体に負けたというわけである。

「6 法とデザイン」は多くの現実的な教訓に満ちた章である。なかでも特に印象深かったのは、係争中も、そして結審後の『知恵蔵裁判全記録』の執筆、編集中も、現実の動きに連動して動いているはずの自分をその運動においてとらえる目と記述する文体の不足をしきりに反省しているところだった。朝日新聞と裁判所が法のフォーマットを維持する不動の一点を譲らない主体としてあったとすれば、鈴木氏自身も立ち位置こそちがえ、大差なかったという反省である。実際には絶えず微細な動き、揺らぎが双方にあったにもかかわらず、その運動性を運動性のままに記述しうる文体を構築できなかったことが、控訴棄却の最も深い原因だったという。その点に関わる鈴木氏の言葉を引用しておく。

最近、「動体視力」という概念に惹かれているんですけれども、自分も動きながら世界をキャッチしていくイメージが大事なんじゃないかな。(中略)動きながらの観察でないとだめなのではないかということなんですね。そして、その動いていく自分の記述をノーテーションと呼んでおきたいのですが、なかなかむずかしい。(264頁)

われわれのもっている日本語文体が、書き手を不動の一点としていないか。(中略)不動の一点からは事態が記述できなくなっているのにもかかわらず、動体が書くという文体を、われわれは見つけていない気がするんですね(265頁)

動く自分を動的に記述する。そのことが、これから始まります。(268頁)

個々の問題の決着ではなく、動いていく自分という視点とそれに付随する文体の確保のほうがいまは重要に感じるんです。(269頁)

微細に見つめるというのがなかなかむずかしくて、あなたはほんとうに見ているのか、という昔ながらの問いになってしまうわけですけれども、見る自分をさらに見るという動的関係のモデルをデザインは率先して生み出さないとならないのでしょうね。デザインが、見ているのか見ていないのかを問う、きっかけでありたい。それがなければ、紙で考えていることを、自分の問題として考えることができない。
様式のなかにいる自分をいかに見るかをふくめて、それらはすべて編集だろうということですね。(中略)事態を追認しつつ編集主体が変化していく編集というものがありうるのか。(中略)「孤高のオリジナル・テクスト」とうい概念は無理であるゆえに、マークアップ言語(文章中に書体や組の情報を埋め込み、画面表示や印刷させるための文章整形言語。ホームページなどを作成するためのHTMLもそのひとつ)が注目されるという事実がある。かたちやあらわれの情報を含めたテクストですよね。フォーマット・デザインのありかたもまた動いていく。法的には、編集権の拡大ということが、これから大きなテーマになってくると思いますね。(270頁)

それで、「6 法とデザイン」全体から私は何を感じ取ったかというと、実は鈴木氏が今日のデザインの課題でもあり、自分にも不足しているという「動体視力」、「動体が書くという文体」、「動く自分を動的に記述する文体」、「編集主体が変化していく編集」などは、正に私たちが毎日ブログを通じて体験を積んでいることではないかということである。しかも私たちはそろそろ美崎薫氏がブログ圏にも「紙を超える思想」を備えたツールを提供してくれそうなことを知っている。その意味でブログはデザインの先端を走っているとも言えるような気がするのは私だけだろうか。我田引水すぎるかな?