ページは、揺れ動く襞のワンショットだ



句読点のことを調べていて出会った「ページネーションのための基本マニュアル」にただならぬ気配を感じ取って、作者の鈴木一誌というデザイナーに興味を持った。いくつかの関心を持って、いろんな場所を出入りしているうちに、著書『ページと力』にも頻繁に出入りし、気になったことを書き留めた。『ページと力』の「あとがき」に「ページネーション・マニュアル」作成の動機、さらには「ページ」にこだわる理由が簡潔に述べられている。

本書は、デザインについての文章で満たされている。なぜ、デザインに関して多くのことばを費やそうとしたのか。やはり、「知恵蔵裁判」がきっかけだったと思う。ことばしか通用しない法の世界で、身体化してしまっているデザイン作業を対象化=公開するように迫られた。「ページネーション・マニュアル」は、「知恵蔵裁判」から誕生した。

(中略)

「ページネーション・マニュアル」を公開するというアクションには反響があったが、そこに書かれてあることの吟味は充分にされていないままだと感じる。だが、細部に目を凝らすことは、もはや運動にはなりえない、そんな空気に全身が包まれている。たたかいということばが許されるならば、あらたなたたかい=運動に備えたい。デザインについて書いてきたあるいは話してきた時間を、ページの薄さに仮託する。薄い紙こそが自分だと認めることから始めよう。ページの薄さに、あらゆる衝突が棲んでいる。

2002年9月23日

(366頁)

これが書かれてからすでに5年余りの歳月が流れている。その後の鈴木氏の「たたかい=運動」については知らないが、「あらゆる衝突が棲んでいる」とみなされる「ページ」のその「薄さ」にあくまで定位した「たたかい=運動」を続けているのだと推測する。

その「薄さ」とは、いうまでもなく、見えない「厚さ」のことである。

同書「6 テクストから書物」には「平面と立体 杉浦康平と書物」と題された杉浦康平の特にブック・デザインの仕事を評した短い文章(ソウルにおける「東アジア文化と日本のブックデザイン」(2000年9月1–2日)のためのレジュメ)が収録されている。鈴木氏は杉浦康平の仕事の本質を、世界を平面化することに大きな特徴のある日本のデザインの伝統を超克するための「立体性の追求」に見てとり、ある意味では自身もその系譜に連なることを認めた上で、しかし、杉浦的宇宙からの離脱をも示唆している。

杉浦さんはなにを目指していたのか。いまふりかえると、書物を、紙面という平面の集積から、一個の立体物へ奪回しようとしていたのではないか、と思う。(中略)ページとは立体物だとつくづく思う。(中略)表裏を同時に見ることはできず、背後の文字列をわずかに透かせて開かれているページは、揺れ動く襞のワンショットだ。(324–325頁)

本を独立した立体物とみなすことは、書物は一個の宇宙である、との論旨につながる。その見方を強調すれば、一個の宇宙である書物の視覚、触覚などの感覚をつかさどるのがデザイナーなのだから、デザイナーは書物の過剰な作家となってしまう。書物がデザイナーのオブジェとなる。寺山修司杉浦康平を批評してこう書いた。

書物はデザイナーの内面を投影した小宇宙としての物体ではなく、むしろ物体の呪縛から解き放されるべき機会をうかがっている発光体である。
(「書物になった男 忘却か、解読か」『叢書 文化の現在10 書物-世界の隠喩』岩波書店、1981年)

書物が、世界を封じこめた体系なのか、外部へと向かおうとする運動体なのか、(中略)どちらが正しいかではなく、ちがうものがせめぎあう場として、つねにページはある。
(326–327頁)

寺山=鈴木の杉浦康平批評は一面的すぎて的を射ていないと私は思う。というのは、杉浦康平のデザインは一個の宇宙であると同時に外部へと開かれているものだと思うからである。寺山=鈴木の批評は逆にむしろ日本的な閉域を露呈してさえいるように思う。日本の環境が杉浦康平の仕事を突出させているという不幸があるような気がする。ひとたび目をアジア全域に広げれば、杉浦のデザインの仕事の驚くべき開かれたダイナミズムが明らかになるだろう。その点については、いずれ書くつもりである。

ここでは、鈴木氏のいう「ページの薄さ」とは「あらゆる衝突が棲んでいる」、「ちがうものがせめぎあう場」としての見えない意味のぶ厚さを備えたものであることを確認して満足したい。それにしても、「表裏を同時に見ることはできず、背後の文字列をわずかに透かせて開かれているページは、揺れ動く襞のワンショットだ」はゴダールをこよなく愛する鈴木氏ならではの美しい表現だと思った。