タフテ、タフテという呪文

以前、英語印刷物を作る際の詳細な組版ルールを記した米国版マニュアル『シカゴ・マニュアル』*1と英国版マニュアル『オックスフォード・ルール』*2を取り上げた。

その際に、鈴木一誌氏が英語圏の編集者たちと共同で『英文日本大事典 Japan:An Illustrated Encyclopedia』(講談社、1993年)を制作したときのエピソードの中で次のように触れていた「タフテ」の存在と日本の現状が非常に気になっていた。

『シカゴ』のほかにもうひとつ、英米語編集者が、ときに呪文のようにつぶやくことばがあった。「タフテ、タフテ」というものだった。…いっとき経って、エドワード・タフテ著 The Visual Display of Quatitative Information(Graphics, 1983)を指していると判明した。図表やグラフ表現がどうあるべきかを示した定本なのだろう。
組版に関してはシカゴ、図表やグラフについてはタフテを参照するのが、米国では通例となっているのだと感じる。
ひるがえって日本の出版について考えてみるならば、…組版に関しては百家争鳴というのが現状のようだし、図表やグラフについてはスタンダードをつくりたいとの意識すらないように思われる。(『ページと力』160頁)

その「タフテ」が今日手元に届いた。


Edward Tufte, The Visual Display of Quatitative Information, second edition(Graphics, 2007)

第一部の実例篇では過去200年間の欧米の優れた図表の実例が詳しく紹介されている。

第二部の理論篇では「データ・インク」をはじめデータ・グラフィクスに最低限必要な実践的理論がシンプルにエレガントに記述されている。

凄い!これは、鈴木氏が接した英語圏の編集者たちが「タフテ、タフテ」と呪文のようにつぶやいたのも頷ける。こういうのを本物の「スタンダード」というのだろう。一通り捲ってみただけで、図表やグラフに対する見方ががらりと変わった。目から鱗が落ちた。非常に複雑な事象の観察結果としての主に数量的なデータをチャートやダイアグラムなどで「図解」する場合の明快な方法論に基づいて、どんな図表やグラフがどこがどうして優れているか否かを的確に判断することができるルール、タフテは「原理(principles)」と呼ぶが、がシンプルに書かれている。

特に「なるほど」と膝を打ったのは、「データ・インク(Data-Ink)」という概念の提示だった(本書93頁)。


p.93

まず「インク」とは文字通り印刷用のインクの「跡」のことで、印刷物上の図表やグラフはそのようなインクの跡(数値や点や線や色面など)の集まりであると見ることができる。図表やグラフの構成要素は突き詰めればインクの「点」とみなすことができるので、ディスプレー上では「ドット」に置き換えてそのまま通用する概念を表す。「データ・インク」とは、データを理解する上で必要欠くべからざるインクの「点」を意味する。通常の図表やグラフはデータ理解に直接必要のない余分なインクを含んでいる。そこで、図表やグラフがデータの意味を明確に過不足なく表現しているかどうかの重要な指標として、全インク量に対するデータ・インク量の比率である「データ・インク比(Data-Ink ratio)」を考えることができる、というわけである。

要するに、普段よく目にする図表やグラフには余分なインクが、場合によってはデータの適切な理解を妨げるように、大量に使われているという事実にハッと気づかされたのだった。もちろん、これはタフテのデータ・グラフィクスの実践的理論のごくさわりの部分の話でしかないことをお断りしておく。しかし、これだけでも、「タフテ」のすごさの一端を窺い知れるのではないかと思う。このタフテの「データ・インク」の考えを分かりやすく説明した例が下で見られる。

タフテ(Edward Tufte, born 1942 in Kansas City, Missouri)のデータ・グラフィクスを中心とした情報デザインの仕事の全容は公式サイトで知ることができる。

またタフテの経歴等はWikipediaで知ることができる。

タフテはかつてニューヨーク・タイムズで「データのダ・ヴィンチ」として絶賛されたことがある。

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「タフテ」は端正で美しい仕上がりの本でもある。内容は大きく「実例(GRAPHICAL PRACTICE)」と「理論(THEORY OF DATA GRAPHICS)」の二部に別れる。各章では優れた図表やグラフの具体例が豊富に挙げられ、解説テクストと共に見事にレイアウトされている。単に図表やグラフの見本やそれらの作成に関わる理論だけでなく、この本自体が優れたタイポグラフィの見本にもなっているという意味で自己批評性に貫かれた筋金入りの本、という印象を持った。

実は、大分以前にタフテとどこかで出会っている気がしていた。微かな記憶の糸を手繰り寄せていて、ようやく思い出した。往年の『bookscanner記』だった。

bookscannerさんはアメリカでは「プレゼンの神様」という異名もとるエドワード・タフテからそのプレゼン手法をあまねく吸収していたのではないかと私は思っている。

それにしても、鈴木一誌氏の約10年前の嘆き「(日本では)図表やグラフについてはスタンダードをつくりたいとの意識すらないように思われる」のその後の消息が気になるところだ。

*1:The Chicago Manual of Style(The Chicago Manual of Style 15 edition, The University of Chicago Press, 2003, First edition published 1906)

*2:R. M. Ritter, The Oxford Guide to Style,(Oxford University Press, 2002)その後、Oxford Guide to Style(OGS)とOxford Dictionary for Writers & Editors(ODWE)が合体した大型のOxford Style Manual(2003)、ハンディタイプのNew Hart’s Rules(2005)が出版された。