パワーポイントを使わないファンベンタムの思い出

私はいわゆるプレゼンテーションでパワーポイントを使うのは考えものだとかねてから思っていた。そしてパワーポイント帝国アメリカで数百人の研究者のパワーポイントを使った発表に立ち会って、パワーポイントは無闇に使わない方がいいことを痛感した。それにはスピノザの精神を継ぐオランダ人の論理学者、ファンベンタムとの出会いが関係していた。


Johan van Benthem(University of Amsterdam)
Johan van Benthem(Stanford Philosophy Department)

滞米中の記録:

いままで参加した会議や講演会などでちょっとうんざりしたのは、皆判で押したように、会場に持ち込んだラップトップパソコンでパワーポイントを使って、準備して来たスライド形式の資料をプロジェクターで会場正面のスクリーンに映写し、それとは別に準備してきた原稿をかなり早い速度で、時折お定まりのジョークを織り交ぜまながら、1時間ほど、読みまくっていることです。ドキドキするような脱線も事故もない、無難な予定調和的なパフォーマンスです。要するに、眠くなる。

そんな中で、とびきりの例外は論理学者のファンベンタムです。彼はパワーポイントもOHPも使えない訳がない人なんですが、敢えてそんなものは使わないんだ、という意志を感じる板書スタイルを貫いています。その場で考えながら板書する。いつどこでも「考え」続けている人のように感じます。講義中だって、講演中だって、いつどんなアイデアが生まれるか分からない、という潔い懐の開き方というか、志の高さを感じました。しかも研究者相手の講演よりも学生相手の授業のほうが熱がこもっているようにすら感じました。

数学科主催の「論理学セミナー」でファンベンタムが話をすることを聞きつけて参加した時のことでした。それはある財団が後援している毎回欧米の著名な数学者、哲学者、言語学者認知科学者、計算機科学者などが講演することになっているセミナーでした。僕は日本の大学で行われるような講演会を予想していましたが、参加者は数学科の先生たちと、大学院生たち、そして海外からの訪問研究員、全部で20人に満たない小規模な集まりでした。定刻に15分ほど遅れてやってきたファンベンタムは、学生相手の授業と全く同じ調子で語り始め、板書し始めたのです。数学者の先生たちから質問が飛んでも、学生に対する対応と変わりません。

講演の内容は、位相空間と様相論理学および述語論理学の関連づけをいかに行うかというテーマでした。ハラハラドキドキしたのは、いくつか峠のように超えなければならない難しい証明のところで、ファンベンタムが立ち往生したときでした。独り言をいいながら、でも聴衆にも気を配りながら、チョークの粉のついた手を肩にかけて、そのためファンベンタムのグリーンのポロシャツの左肩の部分は白くなっていましたが、考え込む姿は、あの羽生名人が長考するときの姿に重なりました。意識のかなり深い層に潜って初めて垣間見える微かなつながりを必死につかもうとしてもがいているといった感じでした。数分の目に見えないダイビングの末に、ファンベンタムはそれをつかんで戻ってきました。ちょっとした精神のドラマを目の当たりにしたような気がしました。
(「カリフォルニア通信」7と9からの抜粋)

現在、講義の準備などで試みにパワーポイントの資料を作ることは多いが、印刷して配付することはあっても実際に使うことはめったにない。目の前に聴衆がいるときに、それは邪魔にこそなれ、お互いにとってプラスになるとは感じられないからである。板書しながら話しかけたほうがよほどよく伝わるところで、余計なものを差し挟む理由はない、と思ってしまう。

その一方で、滞米中にパワーポイントによるプレゼンテーションを「芸術」の域にまで高めた人物がいて、サンフランシスコで彼の講演があるという新聞記事を読んで、興味をそそられたことがあった。そんな使い方なら見倣いたいなあとその時思った。しかしそのことをすっかり忘れていた。最近、その人物が実はタフテだったことを知ったのだった。