少なくともインドにまでは赴かなければ

ああ、やっぱり、そうだったか、と呟いていた。

杉浦康平が「日本」という「かたち」の源泉を東アジア全域から南アジアまで辿り、インドで決定的な体験をしたように、

かつて吉増剛造ブッダ、そしてタゴールのインドに赴き、日本語の中に埋もれた異語の響きの記憶の影の中を生死の境を彷徨うようにして歩いたのだった。

1988年から89年にかけて、三度にわたってインド、バングラデシュを訪ねたときの体験を、吉増剛造は次のように語っている。

「漢字」、「ひらがな」、「片仮名」の綾織り、ところどころに冷たい風もちぎれて音韻の隙間のある習いおぼえ書き馴染んだ言葉が、とおい異国の風景を語るとき、とても使いづらい筈なのに、僕はいまインドの時間を語ろうと思いつつ思いがけない言葉の騒ぎを身内に感ずる。それは懐かしさとも沈黙ともちがう。おそらくこういい切ってよいだろう。いまだ読んだことのない宇宙(言葉の騒ぎ)を前にしているのだと。ある満ちた、”不可能”の状態。澄んで濁った前方を読むことを遅らせているその状態を読もうとする、指示の力が退いて行く。この瞬時にしてそれを知覚したのは、おそらくわたしのなかの奇妙な型だ。姿と、力と、といおうとしていま、瞬時に”型”といいなおしていた。みたことのない絵のようなかたちが通行している。みたことのない絵といういい方で宇宙を。そうか、異なった、いまだかつて経験したことのない生命の遅れ---バーリ語、サンスクリット語ではどう響いているのか。それはそれを知るときまで知らなくともよい。時が(型が)響いて行く、わたしの過去、通り過ぎた時の幽かな漣波の白衣を引いてその前方へと漣波の白衣を引き出して、行く。奇妙な型、明るく土埃のゆっくりと立つところに宇宙のフォルム(小丘)に近づいて行くような気がしていた。
「雨降れ葉揺れ/濁りの山よ」(『螺旋歌』asin:4309006310所載、387頁–388頁)

杉浦康平のデザインの仕事と吉増剛造の詩の仕事が私のなかで一定の距離を保ちつつも重なった。襲(かさな)った。