小説とはものを考えるすぐれた方法である、という内容のことをかつてある小説家が語るのを聞いて、なるほどと思ったことがあります。ひとつの問題を複数の角度から語ることを通して、真実の多面性、多面性としての真実に迫ることができる、というわけです。逆に、現実の生きる現場に密着しすぎた私の視点だけからは物事は一面的にしか語ることができず、それは誤りに導きやすい、と。
レイナルド・アレナスの『めくるめく世界』(1966年)を読んだとき、その文字通り「めくるめく」小説の眩暈性は、「同一の」出来事について大きくかけ離れた複数の視点から繰り出される語りの相互作用から生まれると実感しました。「真実」という一種の「力」は一筋縄ではいかない扱い難さをもつんだなあ、と。直接的に語るだけだと、その力は極端に萎えてしまうようです。だから、むしろ真逆の視点から反真実をある状況、ある文脈のなかで説得力豊かに語ってみせるという回り道も必要になる。要するに、悪役も必要である。
『めくるめく世界』は実在した修道士の波乱の人生に題材をとり、そこにアレナス自身の苛酷な人生が二重写しになったような長編小説ですが、例えば、こんなくだりに感心しました。
「で、神様は……。神様も殺せばいいじゃないの?」四方に鏡をめぐらした部屋に入りながら、女は言った。すでにハミングは途絶えていた。
「その必要はないと思うので」と修道士は答えた。
「もしあったとしたら、どうするの?」女の声は優しさに満ちていた。
「それでも殺しません。殺す必要のある神ならば、初めから存在しなかったと考えるほかないでしょうからね」
沈黙が生まれた。修道士は鏡に映って数を増していく女の姿を眺めた。それは分かれて無数の映像となり、しまいにはめくるめく渦と化した。無数の女は修道士を手招きして、奇妙な儀式に加わるように誘った。だが修道士は踏みとどまった。渦が止まった。女はふたたび一人になり、鏡はその外見の姿だけを映し出していた。
「あなたの力になれそうだわ」と、やがて女は言った。その表情がいくぶん疲れているようにも見えた。「きっとお役に立てると思うの。私に助けてもらったら、あなた、そのことを一生忘れては駄目よ、修道士さん(この呼び掛けには隠しようのない軽蔑の響きが込もっていたので、修道士は一瞬、ぎくりとした)。さあ、ちゃんと物事が見えるように、目を覚まさせてあげるわ。あなたは村の出、田舎者なのね。思いやりがありすぎる、とんだお人好しだわ」女は部屋のなかを歩き回りながら、いらだたしげに付け加えた。「おまけに、潔癖すぎるのよ……。そんなに純真だったり、辛抱強いのも良くないわ。気が利かなくて、先もろくに見えないのも困るわ。想像力をはたらかせては駄目よ。信念や感情なんてものに心を動かされないようにしなければ。理性なんてどこかへ隠しておくにかぎるわ。あんなものはなんに役にも立たないの。それをいじくり回して喜んでるのは負け犬だけよ、修道士さん(今度はこの言葉に怒気がこもっていた)。当てになるのは自分だけなの。友だちなんか忘れなさい。いるのは敵ばかりよ。馬鹿だねえ、ほんとに! あんたは欺されたんだ、まんまと!
(137頁〜138頁)