花咲か爺の課題2、「待たない」思想

散歩でたまに出会う幼い兄妹がいる。いつも二人で遊んでいる。幼い兄がもっと幼い妹の面倒を見ている。その兄妹は私たちが近づくと目を合わせないように俯いたり、あらぬ方を見やったりして、私たちが通り過ぎるのを待つ。私が笑顔で声を掛けても、返事はない。固い表情のまま一瞬ちらりとこちらを見るが、危険なものを避けるように、心も身体も逃げの態勢をとる。

もう少し頻繁に出会えれば、彼らの警戒心を解くことは不可能ではないと思われるが、この調子ではかなり難しいだろう。しかもどうも彼らは犬が苦手のようでもある。特に妹の方は風太郎を怖がるそぶりを見せる。でも、いつか彼らの心にも花を咲かせたい。

ところで、今日は「待つ」ということについてぼんやりと考えていた。いや、今日どころか、ずっと昔から考えて来たような気がする。待つとは、現在における何かの欠落、欠乏が未来において埋められることを期待するということだろう。それはすなわち、今、ここに生きる自分に満足できないことを意味する。そんな「待つ」態勢は現代では至極当たり前のことのようにも思われる。しかし、「待つ」こととは無縁な生き方、そして「待たない」生き方が美しい魅力的な生き方として継承される土地があることをル・クレジオは雄弁に物語っている。

彼女らは人生の一瞬一瞬のもっとも小さな仕種のうちに、時のもっとも奥深くからやってきて、彼女らを作り出したこの土地に彼女らをむすびつけている力をたずさえているのだ。
(中略)
彼女らの美しさは、周囲の世界の変化に無関心だ。他の土地では男も女も、自分たちの惨めな生活をやわらげてくれるもの、渇きや飢えや欲望をついにいやしてくれるものを、無為に待っている。けれどもここ、雲をまとう火山の高みに島のようにとまっているこの遠い村で、タレクアトの女たちは待たない。彼女らは空の青や光の黄金色を身につけて、ただ彼女ら自身でいるだけだ。
(中略)
 大地には、あるいは大洋の真っ只中でも、稀にそんな力をもつ場所があるものだ。われわれの心を乱し、試練を与える場所が。サイレーンの歌が聴こえ、妖精たちのつぶやきが聴こえ、水の、光の、樹木の、誕生が見える。眼から見たこともない光を放つ、最初の女性が見える。そんな場所がもつ力だけが、われわれを変えることができる。なぜならそれは、われわれに世界の真実、世界の魅惑を教えてくれるのだから。
ル・クレジオ『歌の祭り』181頁〜182頁、asin:4000222023

ここでル・クレジオは「待たない」ことの美しさ、その至上の価値をナイーブに主張しているわけではなく、「待たない」ことをひとつの理想、思想として機能させて、「待つ」しかない現実を根本的に変える戦略について語っているのだと理解したい。