物語

id:throwSさんが映画『20世紀少年』の物語としての「荒さ」、リアリティのなさの原因を「オウム真理教以降」のこの国における物語ることの根源的な難しさを踏まえていない点にあると鋭く指摘している。付言するなら、それは9.11以降の世界情勢とも連動しているだろう。

といったワケで、すごいお金のかかった作品だと思うんだケド、同じお金をかけるんだったら、『実録・オウム真理教』っていうような作品を撮って欲しいとワスは思ったですね。

私は浦沢直樹のSFサスペンス漫画「20世紀少年」を読んだこともなく、その全3部作の第1章にあたる現在公開中の映画『20世紀少年』もまだ観ていない。それでも、throwSさんのエントリーからその物語の本質的限界を教えられた。

「それ」を抱え込んだ上で「希望」を語る物語でなければ、現代世界を生きる個人が真に縁にできる物語になりえようはずがないということは、「それ」以降、「常識」だったはずなのに、「それ」を排除したつもりになって日々無邪気で呑気なおしゃべりや似非物語が大量生産、大量消費され続けている。一体この体たらくは何たることか。そうthrowSさんは怒っているのである。

throwSさんは明言していないが、きっとこう思っているに違いない。すでに森達也の『A』と『A2』があるではないか。それらを踏まえ乗り越える物語あるいはヴィジョンを提示できなければ、ドキュメンタリーとフィクションという区別を超えて最低限の映画的倫理さえクリアできていないのではないか、と。

世界が終わろうしている? 冗談じゃない。陳腐で荒い物語が終わったのであって、世界の混沌に拮抗しうるローカルでありつつも普遍的で精緻な物語が求められているのだ。現代社会に欠落している、既存の社会構造や組織から逸脱する個人を結ぶ中間的で生産的なネットワークを支え活性化する物語が。

読んでから、観てから、書けって? はい。