花咲か爺の幸福の哲学2:死の認識

製品は劣化し、生物は老化する。製品にも生物にも寿命がある。しかし個々の製品や生物の寿命を正確に知ることはできない。そこで、保証期間や平均寿命が実験的にあるいは統計的に推測される。製品の場合には「加速劣化試験」があるが、生物の場合には歴史的にも現在でも過酷な生存環境そのものが壮大な加速劣化試験のようなものだろう。

製品の劣化による寿命に関してさえ、こう言われる。

加速劣化試験では限られた要素や要素の組み合わせでの実験が行われるが、実用に際してはより多くの要素が複雑に絡み合っており、今後も予想外の現象が発生する可能性が否定できない。
「加速劣化試験」Wikipedia

ヒトを含めた生物の寿命の場合は尚更であろう。すなわち、一方では、いつ死ぬか分からない、いつ死んでもおかしくない、と考えられる諸要因があり、もう一方では、平均寿命を超えて長生きするかもしれないという観測を完全否定する明白な証拠はない。

要するに、寿命の長短は予測できない。生命はその予測不可能性のなかにある。

さて、しかし、以上を踏まえた上でなお、看過できない大切な点があると花咲か爺はつらつら思うのであった。

生物には人間の科学によっては捉えられない寿命の把握があるんじゃないかな。野生動物はもちろん、飼い猫や飼い犬だってさ、自分の寿命を知っているって実感した経験が何度もあるよ。それは科学的真理じゃないけど、古来語り伝えられて来たある種の真実だって気もするんだ。それにね、人間だってさ、生き方、鍛え方次第では自分の死期を「正確に知る」ことができるようになるような気がするんだ。もちろん、科学的な意味じゃないよ。ある意味で、ということね。それがどんな意味かちゃんと説明するには何冊も本を書かなきゃいけないような予感がするな。逆に言えば、そのように生きられるようになれば、幸せに生きることができてるってことじゃないかな。そんな気がするよ。でもね、実際にはさ、そういう素敵な認識を邪魔する不幸の諸要因が溢れ返っているわけだよね。現代社会ってやつは。だから、例えば、ル・クレジオなんかも一旦は西欧文明全部捨てる覚悟で遠い旅に出たわけでしょ。結局は帰還するけどね。でも単純なUターンじゃ決してなくてね、螺旋的な帰還ね。吉増剛造に『螺旋歌』って本があるんだけど、きっとその辺にもつながってると思うよ。

そういうわけで、花咲か爺はね、遠い旅に出たりしないでね、現代社会の真っ只中でね、そんな不幸の諸要因を追い払うために、笑顔を押し売りして歩いているというわけさ。

苦虫つぶしながらだらだら生きてないで、潔くけじめを付けながら、そして最期のけじめを見据えながら、笑顔で生きようぜ! ってね。合掌。

苦虫つぶしながらだらだら生きてるの、あなたでしょ?