被写体考

「被写体」という言葉にずっと違和感を覚えていた。フレーム内に写っている何をどう見るかによって被写体は同じ一枚の写真でも千差万別だと思うからだ。しかし、写真家が「それ」と深くコミュニケートしているものは自ずとひとつの被写体としてその写真を見る私にも迫ってくる。場合によっては、パッと見ただけで、それは心に飛び込んでくる。

街でも女でも男でも、動物でも植物でも、写真に写っている被写体には写真家の心が反映するのだろう。被写体との距離感と言ったらいいだろうか。ああ、この写真家には戸惑いがある。でもその戸惑いが素敵だ、とか。ああ、この写真家は自信に溢れている。でも、こんなに深くコミットしちゃって、大丈夫? とか。ああ、この写真家はこんな編集しちゃっている、とか。だから写真は面白い、怖い。

普通の意味で故郷、国を捨てて、異郷、異国で人生の根を降ろし張ろうとしている写真家の撮る写真と、この地上にはどこにも根を下ろす場所なんかない、あるいは、どこにでも根を下ろせると覚悟した写真家とでは、撮る写真のリアリティには千里の径庭がある。でもその大きな距離は一人の人間の心にすっぽりと収まりもする。心は化け物だ。