往復と回転:留萌神社と留萌湊神社

神社って不思議なものだと思う。寺や教会とは異質な何かがある。もちろん、融合している部分はあるが、その根源的な働きにおいて、寺や教会が人事に強く関わるとすれば、神社はその土地の自然力とその土地に住む人々の生活の複雑な絡み合いの総体を一定の方向に向かうように制御しているように感じられる。実際に、その土地の中心的な神社の歴史はその土地の全歴史の要約になっていると感じる。神社にはその土地の歴史が記憶されている、と言えるだろうか。



一昨日、亡き祖父にまつわる微かな記憶をたよりに、道北の港町ルモイ(留萌)を初めて訪ねた。樺太時代にずいぶんと世話になった人が留萌に住んでいたらしい。だから? それだけ。でも、それだけで十分...。

(留萌は)アイヌ語のルルモッペが語源。ルルは(汐)モは(静)ヲッは(ある)ペは(水)のこと。「汐が奥深く入る川」という意味で、留萌市を流れる留萌川から名づけられている。
「市名の由来」(『留萌市ホームページ』)

真っ先に留萌神社に向かった。

 天明6年(1786)当地支配人栖原彦右衛門が、当市58番地に広島県安芸の厳島神社の御分霊を奉斎したのが創祀と伝わる。万延元年(1860)留萌郡は床内藩の領地となり、明治3年山口藩の支配地となったが、営繕・祭祀の諸費は一切藩費をもって支弁されていたと伝えられている。明治9年、村社厳島神社と公称し、明治29年郷社となる。初めの境内は海岸に近く、その上低地であったので、海が荒れたり留萌川が氾濫出水の際は社内に浸水があったため、明治31年当市留萌通りに遷座。同39年には神饌幣帛料供進神社に指定された。大正14年に現境内に遷座し、昭和15年県社となり、現社名に変更した。昭和21年に宗教法人となった。
「北海道内神社検索データベース」(『北海道神社庁』)

要するに、留萌神社は政治においても、川と海に依存した住民の生活においても歴史的に大きな節目を記憶しているわけだ。

留萌神社は港を見下ろす見晴らしのいい高台にあった。五十段くらいの階段を上り、白い鳥居を三つくぐると古びてはいるものの神明造(しんめいづくり)の立派な社殿があった。境内の隅には氏名と年月が彫られた「百度石」が数十個無造作に置かれていた。鳥居を三つくぐってお参りをする。今しがた自分がくぐってきた三つの鳥居を振り返って眺める。何を見ていたのだろう。そして再び今度は逆方向に三つの鳥居をくぐって、境内を出る。鳥居をくぐるという行為は越境の行為だとそのとき改めて感じた。しかも行ったっきりではなく必ず戻る。往復する。そんな往復越境を百回なり数百回なり反復するという行為は人にどんな経験、それ以前とそれ以降でどんな変化をもたらすのだろうかと図らずも考えていた。それまで囚われていた心の境界が拡大される?


坂道を下り、港のすぐ傍にある留萌湊(みなと)神社にも立ち寄った。留萌湊神社に関する詳しい記録はウェブ上には見られないが、航海の無事を願って建てられたもうひとつの灯台のような神社に違いない。小さな白い鳥居をくぐると左にほぼ直角に折れた方向に古びた小さな社殿があった。狭い境内ではあるが、鳥居をくぐった身体を左半回転させなければ、社殿に真正面から向き合うことができないのは新鮮な体験だった。土地利用の都合でたまたまそういう配置になっただけなのか、それとも最初からそういう設計だったのか。いずれにせよ、直進するのが当たり前と思われている場所で向きを変える、回転するという行為もまた一種の越境だと言えるのかもしれないと思った。そして舞踏の「舞」を含めて回転という運動には、直線的な人生観、世界観、歴史観をズラすような、その場にいながらにして越境し続けるという深い意味があるのかもしれない。社殿には大きなクモの巣が張っていた。

大正末期の湊神社の古い姿をみることができる。

岡の上に湊神社が見えます

「大正末期、修築以前の留萌港」(『港の建設』)

ひとつの方程式が見えてきた。

往復+回転+α=螺旋

αは垂直方向の運動。