大正時代にシベリアのアムール川河口の炭坑町ニコライエフクスで起こった尼港事件(1920年)を調べていて、札幌の手稲を舞台にして起こった「軽川光風館事件」(1922年)をはじめて知った。一世を風靡したという温泉旅館「光風館」*1のことも。
こんな「読ませる」文章を見つけた。
まるで黒澤映画のあらすじのようだと思った。こんなヤンチャな日本人がいたのかという北海の海賊の頭目、江連力一郎(えづれりきいちろう)も興味深いが、誰がこんな文章を書いたのかの方が気になった。なんと、株式会社ヤマザキの会長である山崎晋哉氏だった。山崎さんは個人のホームページを運営していて、「仕事の合間、いえ、このホームページを作る合間に、仕事をしております。」とのこと。まあ、会長さんだしね。
株式会社ヤマザキも興味深かった。
ネジ、ボルト、ナットなどのコネクター、すなわち金属製の締結部品、すなわち「つなぐ」ものを製造している会社である。本社は東京目黒、営業所は横浜にある。人間界においても、情報界においても、物質界においても「つながり」こそ命であるからして、非常に鋭い目の付けどころである。
ちなみに、そのようなコネクター製品の市場を「ねじ業界」という。
八幡ねじの鈴木健吾社長は言う。
ポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝来した1543年、日本人とねじとの出会いは、この時にはじまったと言われています。それから約500年、モノとモノを結びつける産業の基礎として、ねじは時代を超え、私たちの暮らしを支え、時には生命を守ってきました。今までは様々に形を変え、材質を変え、新たな機能を付加されて、高層ビルや高速道路などの現代の大型建造物に、自動車に、携帯電話やパソコンに、そして医療に活躍の分野を広げています。ねじの一つ一つは安価なものですが、このように大変重要な機能部品であることがおわかりでしょう。
なるほど。しかし、金属に依存する以前の世界におけるコネクターは何だったのか、と気になり出した。