『悲しき熱帯』の消息

昨日取り上げた石田博士記者による朝日新聞夕刊の連載「「悲しき熱帯」を歩く」は今日の5回目「ただ一人、年月見つめ」が最終回だった。石田氏は今回のナンビクワラ族の集落の訪問取材を通して、70年前に調査に訪れたレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』(1955年)の中に残した言葉、認識を苦く噛み締めることになった。

 レビストロースは「異常な発育を遂げ、神経のたかぶりすぎた一つの文明によって乱された海の静寂は、もう永久に取り戻されることはない」と記した。
 それから半世紀、ナンビクワラ族は現代文明に包囲され、かりそめの豊かさと裏腹に、伝統は色あせていた。
 闇夜に響いていた神々しい歌声が消える時、この世界を美しく彩ってきた文化が、また一つ、失われる。

そして、石田氏はかつてのレヴィ=ストロースと同じように文明の側に帰還する。

しかし、石田氏が引用したレヴィ=ストロースの言葉は見かけほど単純ではないと感じる。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

文明の目には驚くべき貧困に映る野蛮な生活が、実は非常に豊かな精神性、伝統的な構造に支えられていることの発見によって、己が自明視してきた文明社会のあり方が歯止めを失って暴走する狂気、「大洪水」(ル・クレジオ)にしか見えなくなったということだけではないだろう。おそらく、レヴィ=ストロースという一人の文明人の心のなかにも死守すべき「海の静寂」があったのではないだろうか。でなければ、引用文に示されるような認識は生まれないような気がする。

そして『悲しき熱帯』という書物は現代文明の荒波に翻弄されながらも「海の静寂」の記憶を運ぶ小舟のような媒体なのかもしれない。