悲惨。損なわれた時を求める島尾伸三


大好きな写真家の島尾伸三島尾敏雄島尾ミホの長男であることを知ったのはいつだったろうか。そのとき、彼の写真や文章に惹かれる理由が分かったような気がしたことをぼんやりと覚えている。ずいぶんと曖昧な書き方だ。大好きと言うわりには、手元にはボロボロになった文庫版の『香港市民生活見聞』(asin:4101380015)一冊しかなかった。今日、たまたま札幌に明日オープンするジュンク堂のプレオープンとやらに行ったときに、真っ先に向かった写真集コーナーでは、ピーター・ビアードの大型本に心を鷲掴みにされたが、値段を見て諦めた矢先に、ふと目をやった写真論のコーナーに島尾伸三の名前を見つけて、思わず手に取っていた。写真は写真、文章は文章。それはもちろんだが、写真と文章の間には秘密の抜け道みたいなものがあって、それを教えてくれたのが島尾伸三だったような気がする。どんな写真もこんな風な文章になりたがっているという「かたち」がある、とでもいえるだろうか。それを僕らは敏感に無意識に感じとりながら一枚の写真を見るのではないだろうか。実際には、永遠に書かれない文章だろうが。話が逸れてしまったが、島尾伸三の写真を見るたびに、不遜なことに、もし僕が島尾敏雄島尾ミホの息子だったなら、と考えないわけにはいかない。それがどんなことだったのか。ある意味では分かろうはずもないことなのは分かっている。でも、分かることもあるはずだとも思う。それで、これまた無礼な言及になってしまうが、昨日のmmpoloさんのサリンジャーの「エズメのために」の翻訳に関するエントリー(http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20081218/1229530267)を思い起こしていた。 "squalor" の訳語として「悲惨」が適切か「背徳」が適切かという興味深い指摘がなされ、それぞれの解釈の可能性が鋭く考察されていた。それは局所的な一単語の訳語の選択に見えて、実は小説全体の解釈をめぐる大局的問題だった。そこで引用された柴田元幸の新訳の中に、エズメのこんな科白があった。

「あなた、悲惨というものはよくご存知?」

「背徳」という訳語を推すmmpoloさんは「この場合『悲惨』も悪くないと思える」と意味深長に記していたのが非常に印象的だった。そして今日、ジュンク堂で迷わず買った『東京〜奄美 損なわれた時を求めて』の中にこんな一節があった。

 思いでは、特に子どもの頃の思いでは、子どもだった当事者には今の自分を作った要素がたくさん含まれる重要なことですが、他人にはそうではありません。希有な経験をした人たちに比べるなら、これまで私の体験してきたことなど、これといった冒険や激動があったわけでもなく、散歩の帰り道に転んだり、家庭の中でのいざこざ程度のことばかりです。戦争や地震や火事に遭遇したわけでもなく、むしろ幸運な環境だったはずです。それなのに、表面上はどうということのない生活だったはずなのに、長男の私と、口がきけなくなるまでの衝撃を受けた妹は、悲しみを抱き続けてしまったのです。
(5頁〜6頁)

悲惨な人生、人生の悲惨を痛感した。誰のせいでもない「損なわれた時」を思い出し、辿り直し、生き直すことを通して、弔う、「葬る」ことを島尾伸三は写真と言葉を往還しながら続けているのだと思う。