扉の楽譜。Kyrie, eleison.


季節風―照片雑文 (照片雑文 (〔1〕))


島尾伸三季節風 照片雑文★☆』(みすず書房、1995年)を手に取って、見返しを捲り、そして扉を捲ったとき、小さな楽譜が目に飛び込んできた。楽譜が読めない貧しい目と耳にも、美しい曲のように感じられた。ミサ曲だろうな。祈りの言葉の反復か。変な感じのラテン語だ。気になって、調べてみたら、やっぱりミサ曲だった。東方教会コプト正教会でも古くから用いられてきたらしい。そして案の定、ギリシャ語をラテン語に翻字した歌詞だった。「主よ憐れみたまえ」か。YouTubeで歌を聴くこともできた。

Kyrie Eleison

島尾伸三は、こんな歌を幼い頃から聴いて育った一方で、信仰との距離、葛藤のなかから生きる原動力を引き出してきたわけか。『季節風』から10年後に出版された『東京〜奄美 損なわれた時を求めて』(河出書房新社、2004年)では、例えばこんな出来事との遭遇記録に驚くべき「注」が付されている。鹿児島本線八代駅での体験記録である。

 ホームへ戻って、下りの連絡を待つことにしました。濃紺の体操服を着た七、八人の女子高校生と大きなリュックと黒い傘を杖にした大きな丸い眼鏡の一人の背の低い男の先生が改札のあたりで、右往左往しています。熊本で高校の体育大会があるらしいのです。熊本行きの列車がどのホームから発車するのかと、迷っているらしいのです。彼らはまるでアヒルの親子のように、同じ仕草で改札口の周辺を動きまわります。


(注)アヒルの親子
 もし、神様がいて、私の前に人の形をして現れることがあるなら、今、目の前の彼らではないかと思わされました。彼らから何かを学ぶとか、反省の材料にするとかではなく、神々しさを見たのです。偶然の出来事に衝撃を受けたのですが、……

 58頁

こんなふうに「予期せぬ場所での刹那の出来事」(004頁)に全神経で反応する彼にとっては、そのように「見る」ことと写真を撮ることが、実は「祈り」にほかならないのではないかと思う。彼が頭では拒絶する「信仰」は、世界を細かな隅々まで、まるで「神の目」に近づくようにして、見ることの中に、一般的な信仰のスタイルのイメージからはかけ離れてはいるが、継承されているといえるのかもしれない。

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