瓦礫の思想、ゴミの思想、0円モデル


クラッシュ―風景が倒れる、人が砕ける (新潮文庫)


……黒々とした焼跡のなかで、突然、信じられないような光景にぶつかった。私はその場に、しばし呆然と立ち尽くした。見渡す限りの廃墟のなかに、両手を大きく広げたキリスト像が立っていた。信じられないことに、キリスト像を境にして、JR鷹取駅方向からの延焼が止まっていた。キリスト像の後方には一面の焼野原が広がっていたが、反対側は一軒の民家も類焼していなかった。まるで、両手を広げたキリストが、大火をそこで防いだかのようだった。教会自体も、カトリック鷹取教会大阪大司教区という看板のみを残して全焼状態だった。そのなかで教会の敷地内に立てられたキリスト像だけが燃え残ったのは、奇蹟としかいいようのない出来事だった。緑色の薄いローブをまとったキリスト像の台座には、ラテン語と日本語とハングルで、「互いに愛しあえ」と、書かれていた。これほど衝撃的ではなかったが、私は神戸の中心街でも、同じような神話的光景に何度か遭遇していた。「瓦礫 阪神淡路大震災」(『クラッシュ』333頁)

阪神淡路を激震が襲った二日後、1995年1月19日に神戸に駆けつけて各地を巡った佐野眞一は、三日目、遺体安置所をかねた東灘小学校を訪ねたときのことをこう記録している。

 便所をのぞくと、大便があふれていた。突然、便意をもよおし、断水で水洗の機能を失った便器にしゃがみこみ屋上屋を重ねていると、須磨海浜水族園の話が自然と思いだされた。この水族館は、一つの水槽も倒壊しなかったにもかかわらず、半分以上の魚が死滅した。停電によって電気系統に故障が生じ、酸素の送りこみができなくなったためだった。
 電気、ガス、水道などのライフラインをすべて他人の手にゆだねた都市生活者は、ひょっとすると、この水族館の魚と同じく、自分の意志で生きているのではなく、単に生かされているだけなのかもしれないと思った。

 「瓦礫 阪神淡路大震災」(『クラッシュ』211頁)

これを読んだ時、普段は見えにくい、映画『マトリクス』の一場面のような、現代の都市生活の実像が、一瞬強い光の下に照らされたかのような錯覚にとらわれた。


隅田川のエジソン

それと同時に、坂口恭平が何かに取り憑かれたようにルポルタージュし、インタビューした「自らの意志と器量、そして発明で生きる」都市のゴミを獲物に見立てて狩る狩猟民であり、都市を境界のない自然に見立ててチャリンコで移動する遊牧民でもあるような、「0円ハウス」で「0円生活」を実践する路上生活者のことを思い出していた。実在の人物(鈴木正三さん)をモデルにして、そのぶっとんだ路上生活が発散する狩猟的遊牧的可能性を坂口恭平は次のように語る。

……硯木は完全に東京という都市を自分の家と同じ感覚で駆使していた。
 この生活は、硯木にとって貧しい生活などではないのである。彼は、自分しか出来ない、自分で作り上げた、完全にオリジナルな生活を送れているという自信に溢れていた。
 自分のための家など小さくていい。人間は、アイデアを使い、工夫し、方法を発明することで自分にとって必要な最小限の空間を発見することができる。さらに壁に囲まれた空間だけを家と感じるのではなく、脳味噌を使うことで、壁を通り抜けて広大な世界を自分の空間と体感できる。
 硯木は無意識にこの極小と無限大の感覚を同時に持ち合わせていた。
 彼は自分のことを、住所も、コンクリート基盤でしっかり固められた家も持っていないが、地球という地面で生活する『ただの人間』であると考えていた。
 硯木にとって、それはとても自由な気持ちになれた。

 (232頁〜233頁)

まるで現代の東京に「エコ(家=地球)」思想を過激に体現した賢者が出現したかのようだが、それは坂口恭平が「高次元の知覚」と名づけた現代人にとっては「原始的」であるが故に「未来的」でありうる忘れられかけた能力の回復の希望を語るものに違いない。都市生活の表層的現実に麻痺した私の知覚にとっては貧困と悲惨の極みにしか感じられない路上生活が、知覚のチューニング次第では、真に豊かで自由な生活のモデル、あくまでモデル、になりうるということ。それは、かつて関東大震災で焦土と化した帝都を「山師の玄関」、「愚民を欺くいかさま物」と日記に記した永井荷風の精神の系譜にも連なるかもしれないとも感じる(『断腸亭日乗』、asin:400310420X大正12年10月3日)。

そうは言っても、私はいつ生命線が断ち切られてしまうか分からない「水族館の魚」みたいな生活から容易に抜け出すことはできないことは分かっているし、坂口恭平が発見した人々のように路上生活をする自信もない。けれども、いざとなったら、「0円モデル」があるんだと思えることは大きな救いになると思う。