まさか、坂口安吾の『堕落論』*1を読み直すことになろうとは思いも寄らなかった。
彼女は、安吾のいう、人間が生きるということは結局堕落の道だけなのだということを、文字通り身をもってわれわれに示した。彼女は小賢しさと怯懦と偽善にあふれ、堕落すらできない現代の世にあって、堕落することのすごみをわれわれにみせつけた。
『東電OL殺人事件』(新潮文庫、11頁)
しかし、その「堕落」には二つの但し書きがある。一つは、「堕ちぬくこと」すなわち「正しく堕ちる道を堕ちきること」(『堕落論』上掲書101頁)であり、二つには、「堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただみずからに頼る以外に術のない宿命を帯びている」(『続堕落論』上掲書110頁)ということである。
『東電OL殺人事件』そして続編の『東電OL症候群』を書いた佐野眞一自身の「堕落」に興味がわいた。
……卑怯な言い方になるかもしれないが、私は彼女とこの事件に強く「発情」したからこそ、その根源を探るため、続編まで書いているという言い方も許されるかもしれない。
私は「発情」した根源をむきだしには語らなかったが、行間には私個人の親と子、兄弟にまつわる誰にも話せない闇と哀しみを潜ませたつもりである。
『東電OL症候群』(新潮文庫、439頁)
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