遠い「山びこ」


遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年 (新潮文庫)

 無着の教育は、山元中学校の正門前に立つ二宮金次郎銅像をいわば半面教師とするものだった。その銅像が象徴する忍耐と勤勉のなかにかくされたごまかしを、子供たちと一緒になってあばきだしていくことが無着の教育の根幹だった。いつでも疑問を持て、というのも無着の教えの一つだった。だが、無着自身も悩んだように、問題意識は問題意識のまま残され、それを解決するだけの知識と技術を、子供たちに修得させるまでには至らなかった。かわりに彼らのなかに確実に残ったものは、いつも力をあわせていこう、かげでこそこそしないでおこう、働くことが一番好きになろう、というむしろ二宮金次郎銅像とも相通ずる勤労観と道徳観だった。
 彼らは無着が植え付けようとした懐疑の精神は忘れても、無着自らが実践した勤労観と道徳観だけは忘れずに持ちつづけ、それを心のよりどころにひたむきに生きてきた。というよりは、東京方面に出た『山びこ学校』卒業生たちの前に立ちはだかった現実は、懐疑の精神をもとうにももてないほどの過酷な状況だった。資本主義社会の矛盾に目を開かされる教育を受けた子供らは、皮肉にも、最も禁欲的なかたちで、資本主義社会を支える礎石となっていった。(306頁〜307頁)

しかし、無着が ”山びこ学校” を実践したときから半世紀以上たった現在、だれが資本主義社会の矛盾を解決するだけの知識と技術を子供たちに修得させることができるだろうか。 ”山びこ学校” を卒業した43人のうちの一人、幸重さんが40年後に語った言葉が印象深い。

 三人の子供は高校を卒業後、それぞれつとめ人になっており、いまや三歳の孫をもつ身である。唯一の悩みは、五年後に定年がくると、借りあげ社宅となっているこの共同住宅から出て行かなければならないことである。しかし、そう語る幸重の顔に、あまり不安の色は見られなかった。
「結婚したての頃は金がなくて、ミカン箱の上で飯食って、質屋通いもよくした。いざとなったら橋の下だって暮らせる」(306頁)

「いざとなったら橋の下だって暮らせる」という言葉に籠められた思想は、資本主義社会の矛盾を解決するだけの知識と技術からどれだけ離れているのだろうか。