幻の写真集『紅頭嶼ヤミ族民族図誌』(1945)


 『Illustrated Ethnography of Formosan Aborigines, The Yami Tribe(紅頭嶼ヤミ族民族図誌)』(『宮本常一、アジアとアフリカを歩く』201頁より)


 表紙(Open Libraryより)

宮本常一、アジアとアフリカを歩く』(asin:4006030320)に収められた「台湾紀行」(1980)に蘭嶼(らんしょ)に住むヤミ族の幻の写真集のことが書かれていて、大変興味をそそられた。博物学鹿野忠雄(かの ただお, 1906–1945消息不明)と植物学者瀬川孝吉(せがわ こうきち, 1906–1998)の共著、Illustrated Ethnography of Formosan Aborigines, The Yami Tribe(Seikatsusha, Tokyo, 1945)である。*1

 早くから蘭嶼(らんしょ)へゆきたいと思っていた。蘭嶼というのは台湾東海岸の台東の東南海上にあり、そこは台湾最南端オランピ岬とほぼ同緯度である。この島はもと紅頭嶼(こうとうしょ)といった。
 この島に興をおぼえたのは、私がちょうどアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)に入所した昭和14年頃、研究所でこの島に住むヤミ族の写真集の編集がおこなわれつつあったからである。島民の生活を写した写真はおびただしい数にのぼっていたが、それをよりわけて一冊の書物にしてゆかねばならぬ。写真をとったのは鹿野忠雄・瀬川孝吉の二氏であったが、これほど丹念に一つの土地に住む人びとの生活を撮影したものはそれまでに見たことがなかった。私には全く驚異であった。
(中略)
 写真集の作られている頃は鹿野さんもよく研究所へ来た。ガッシリした体だが、しかし背はそれほど高くない。その人はやってくるとすぐ裸になり、褌一つで仕事をする。時には研究所の会議室にある大きなテーブルの上に大の字になって昼寝をする。アチックの若い人たちは昼の休みによくテニスをしたのだが、鹿野さんはそれにも裸のまま参加し、時には相手になった若い女性が眉をしかめることがあってもパンツをはこうともしなかった。蘭嶼での生活をそのまま持ち続けた。
(中略)
 蘭嶼の写真集ができたのは昭和20年の初めであるとおぼえている。でき上がった見本10冊あまりが渋沢敬三先生のところ(アチック・ミューゼアム)へ届けられたあと、印刷所が空襲にあって刷り上がったばかりの書物は焼け失せた。渋沢先生は知友・先輩に手許の本を配られたが、二、三冊残った。その一冊を私はもらった。私も後に戦災に遭うて蔵書は焼いてしまったのだが、どうしたことかヤミ族の写真集は郷里の家へ持って帰っていてたすかった。
(中略)
 さて写真集の方は昭和31年に若干の増訂をおこなって丸善から再刊され、入手は容易になった。ただ解説が英文でなされているために一般の人たちの関心をよぶことは少なかったが、南方文化と日本文化のつながりを考えようとする者にとってはいろいろの暗示を与えてくれるものとして貴重な資料であった。

 (197頁〜202頁)

写真集だけでなく、南方熊楠(みなかた くまぐす, 1867–1941)を彷彿とさせる型破りの研究者鹿野忠雄への興味もかきたてられる。同じく『宮本常一、アジアとアフリカを歩く』に収められた「台湾の高砂族」(1979)に「紅頭嶼と鹿野忠雄」と題された一節がある。

 鹿野さんは、この本がまだできあがる前に日本を発ち、フィリピンへまいりました。当時日本が既に占領しておりましたから、フィリピンのマニラ大学の教授を兼ねて、フィリピンにおける文化関係の調査をすることになって、向こうへ行ったわけだったんです。そして、さらにその後にボルネオに入りまして、ボルネオで終戦を迎えた。
 我々は鹿野さんという人はどんなところへ行っても絶対に安全だと思っておったんです。ところが、ボルネオから帰ってこられないで今日に至っておる。たぶん殺されたのであろうということになっておるのです。とにかく、この人はどんな社会へ入っていっても敵を持たなかった人なんです。それほど立派な人だった。
(中略)
 結局、鹿野さんがボルネオにおる頃に、やっと昭和二〇年ですが、この書物(Illustrated Ethnography of Formosan Aborigines, The Yami Tribe)ができました。これは当時生活社という本屋がありまして、そこで刷ったのです。(中略)これは日本人に読ませるために書いたんじゃないので、全部横文字になっているんです。だから、ほとんどの人がこの書物を知らない。
(中略)
 それで、これは定価をつけて売らなければならないから、しっかりと写真を選んで、この一冊を編集したのですが、当時、この写真を撮りましたのは昭和十五年頃でございますが、その頃にこういう未開民のことについて関心を持つ日本人は少なかった。だから、日本でつくって売っても売れないから外国で売ろうということで、横文字にしたのです。ところが、戦後もう一ぺん、丸善がこれを復刊しますけれども、それも英語で書かれておるということで、日本人はほとんどこの書物の存在を知らない。日本人が知らないのに、外国でこれが評価されるのかというふうになって来たのです。

 (265頁〜271頁)

Illustrated Ethnography of Formosan Aborigines, The Yami Tribeは最初から少なくとも日本では「忘れられる」ことを宿命づけられたかのような稀有な写真集だったわけだ。ぜひ見てみたい。そして鹿野忠雄というスケールの大きな研究者の最期は未だに歴史の闇の中にある。宮本常一は鹿野忠雄を殺した「敵」に関しては明言を避けたが、以下の言語学者の土田滋による報告に見られるように「日本の憲兵によって撲殺された」というのがもっぱらの噂である。

(鹿野忠雄には)ヤミ族や紅頭嶼関連のたくさんの論文があるが、中でも瀬川孝吉との共著による Illustrated Ethnography of Formosan Aborigines, The Yami Tribe.(Tokyo, 1945)をあげなければならない。敗戦直前だったため、出版後ほどなくして空襲によりほとんどが灰燼に帰した。戦後、一九五六年に丸善から再版されたが、印刷した八〇〇部のうち四〇〇部を製本しただけで、残りは理由不明のまま廃棄処分されてしまうという不運な運命をたどった。鹿野忠雄自身も、陸軍省からボルネオの民族調査の依頼を受け、昭和一九年八月に北ボルネオに入ったものの、一年後の昭和二〇年七月、キナバル山をのぞむタンブナンで目撃されたのを最後に、消息を絶ってしまう。一説によれば、日本の憲兵によって撲殺されたのだという。享年三八。あまりにも早く、そして無惨な死であった。

 土田滋「日本人のヤミ族文化研究」日本財団図書館(電子図書館)『自然と文化 75号』)

ところで、宮本常一が1979年に短期の調査旅行をした蘭嶼はその後、酷い歴史を歩むことになった。日本でもたびたび報じられたように、1982年に台湾政府は島民には缶詰工場と偽って、島の南端の海岸近くに、低レベル放射性廃棄物中間貯蔵場を建設した。ドラム缶詰めされた廃棄物は地下3メートルにコンクリートで埋められたが、結露による水が大量に発生して、ドラム缶が腐食し、汚染された水が漏れ出し、90年代には深刻な被害が明るみに出て、住民による激しい撤去運動が起こった。政府は2002年までの撤去移転を約束したが、移転先はまだ決まっていない。*2 南国の明るいイメージに彩られた「夢の島」として訪れる観光客も多い蘭嶼には、核のゴミの島としての暗い運命が影を落としている。


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 蘭嶼


参照:

*1:国立国会図書館では東京本館に所蔵されている(→ 書誌情報)、また合衆国議会図書館(Library of Congress)にも所蔵されている(→ 書誌情報)。

*2:http://www.jaif.or.jp/ja/news/2007/22nd-jptw_seminar-report.html