「合同」と「仲間」


大阪あいりん地区(釜ヶ崎)で生活困窮者の支援活動にかかわる川浪剛さん(48歳、真宗大谷派の僧侶)はこう語る。

みなさんにお聞きすると、死んだら「たましい」はどこへ帰るのだろう、と切実に感じておられる。

多くの人は家族や故郷とも関係が切れてしまっている。帰る場所としての合同墓があれば安心して眠ることができる。

 (「困窮者の弔い僧侶が支援」朝日新聞2009年5月11日朝刊)

来年には泉大津市に「帰る場所としての合同墓」が完成する予定だという。家族や故郷とは無縁の「合同」である。


また、以前紹介した(「終(つい)のすみかと身寄り」(2009年04月28日))、行き場のない生活保護受給者やホームレスの人たちに「終のすみか」を提供している墨田区NPO「ぽたらか」では、入寮者やそれ以外の困窮者の葬儀をするために、2年前に葬儀業の届け出をしたという。代表の平尾弘衆さん(56歳、尼僧)はこう語る。

みんな、1人で逝くのがこわい、と言う。だから最期はずっと付き添う。クリスチャンの人に念仏はどうかと思い、子守唄を歌ったこともある。焼香は仲間全員でする。1人じゃないと思えるような葬儀をしたい。

 (同上)

「1人じゃないと思えるような葬儀」の実質は「仲間」である。

墓は肉体が還る「あちら側」の象徴かもしれないが、魂が還る場所は実は「合同」や「仲間」という言葉でかろうじて指示されるような「こちら側」の希望なのかもしれないと思った。

死とは人間にとって究極の帰る場所としての「故郷(home)」だとすれば、そのような死という一点においてのみ生に本質的な何かを共有できる、他に何も共有しえなくとも。そしてそこから生の有り様を再考、再構築しなければならないのかもしれない。